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		<title>think-routine #24　天使のささやきについて</title>
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		<pubDate>Sat, 23 Feb 2002 16:00:03 +0000</pubDate>
		<dc:creator>dotimpact</dc:creator>
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		<description><![CDATA[featuring 「天国から来た男」 初出：2002-02-24 &#8211; http://www.kaisoku.com/dotimpact/think_24.html - dpi. #02『第２集 クリックすると次のページに進みます』所収文章をほぼそのまま再構成しました。 ■ 天使の声が聞こえた「天国帰還まで、あと30 日です」。 自分の家のある向田住宅　A-401 に居る。 天井の低い作りの密集した典型的な公団住宅だ。窓側には BS アンテナや鳩よけが見える。 ■『天国から来た男』はこのような文章にはじまる。ご覧の通りである。ここにあるのは何の変哲もない情景描写にすぎないわけだけれど、この文章に、この「何の変哲もない情景描写」に、郷愁みたいなものを感じてしまうのは、僕だけじゃないんじゃないだろうか。『天国から来た男』はエレクトリックシープというソフトハウスが発売しているパソコンゲームだ。 ■まだコンピュータが画面に漢字を表示できることを誇りとしていた時代、多くのパソコンゲームが画面に表示していたのはどういうわけか、こういった奇妙なほど乾ききった描写ばかりだった記憶がある。単なる印象に過ぎなくてこういうものばかりじゃなかったのかもしれないし、アドヴェンチャーゲームというゲームスタイルから、パソコンゲーマーの年齢層から、こういった文体が選択されてきた側面もあるとは思う。でも『天国から来た男』をプレイしてこの「今時珍しい」テキストに触れてみると、選択可能なスタイルの一つというよりは、他にはありえない「コンピュータゲームの文体」みたいなものを、僕は感じる。基本波形から生成された合成音声が「誰の声でもなく」聞こえるように、そこで描写される世界も、なんというか、「誰のものでもない世界」、を描写しているように、僕には感じられる。 ■そしてまさしく、その描写によって「誰のものでもない世界」を作ろうとするのが『天国から来た男』というゲームなのだった。そのドラマチックなタイトルとはうらはらに（念のために言っておきますが似たタイトルの映画とは無関係ですよ）、このゲームはドラマチックなストーリーをもたない。そのようなかたちで、ストーリーを実装しない。プレイするたびに再計算される世界と、まったく同格において行動し、対話し、互いに関係する（らしい）プレイヤーを含む登場人物と、経過する３０ 日分の時間単位に含まれる蓋然性が、『天国から来た男』のストーリーのすべてだ。オブジェクトオリエンテッドの世界を、「コンピュータゲームの文体」が物語っていく。『天国から来た男』はそういうゲームである。 ■言うまでもないけど、乾いた文体が描写する「誰のものでもない世界」に物語を見ていくのが他ならぬプレイヤーである。天国から来た男であるプレイヤーには、毎日午前零時に天国帰還までの残り日数を知らせる天使のささやきが聞こえる。それはもちろん、システムが決められた文字列を決められたタイミングで表示するにすぎない。でもそれはあるときはさつき書店から自分の部屋に帰りついたときだろうし、あるときは友人の太田圭一郎と話をしている途中だろうし、あるときは付き合いはじめた井上未希と「Ｈ した」あとだろう。毎日くりかえされるまったく同じフレーズに、僕は毎日それぞれ個別の想いを寄せる。正確に言うべきだろう、&#8221;毎日まったく同じフレーズが繰り返されるからこそ、われわれはそこにそれぞれ個別の想いを寄せる。&#8221; ■ 天使の声が聞こえた「あと２４ 時間で天国に 帰還しなければなりません」。 今日は、地上にとどまる最後の日だ。 ■そしてプレイヤーは３０ 日ののちに天国へ帰還する。ここでゲームはプレイヤーのフェアプレイを称えて、ささやかなボーナスステージを用意するのであるけど、それが何なのかは野暮なので言わない。ていうか、たぶん言うまでもないだろうな。この「リプレイ」を読むためにプレイヤーはこのゲームをプレイするのだ、とか言ってしまってもいいと、僕なんかは思うのだった。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				<ul>
				<li>featuring 「天国から来た男」</li>
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				<p>初出：<a href="http://web.archive.org/web/*/http://www.kaisoku.com/dotimpact/think_24.html">2002-02-24 &#8211; http://www.kaisoku.com/dotimpact/think_24.html</a>
				- dpi. #02『第２集 クリックすると次のページに進みます』所収文章をほぼそのまま再構成しました。</p>
				
				<p><span id="more-10"></span></p>
				
				<hr />
				
				<p>■</p>
				
				<blockquote>
				<pre><code>  
      
          
              天使の声が聞こえた「天国帰還まで、あと30 日です」。
              自分の家のある向田住宅　A-401 に居る。
              天井の低い作りの密集した典型的な公団住宅だ。窓側には
              BS アンテナや鳩よけが見える。
          
  
</code></pre>
				</blockquote>
				
				<p>■『天国から来た男』はこのような文章にはじまる。ご覧の通りである。ここにあるのは何の変哲もない情景描写にすぎないわけだけれど、この文章に、この「何の変哲もない情景描写」に、郷愁みたいなものを感じてしまうのは、僕だけじゃないんじゃないだろうか。『天国から来た男』はエレクトリックシープというソフトハウスが発売しているパソコンゲームだ。</p>
				
				<p>■まだコンピュータが画面に漢字を表示できることを誇りとしていた時代、多くのパソコンゲームが画面に表示していたのはどういうわけか、こういった奇妙なほど乾ききった描写ばかりだった記憶がある。単なる印象に過ぎなくてこういうものばかりじゃなかったのかもしれないし、アドヴェンチャーゲームというゲームスタイルから、パソコンゲーマーの年齢層から、こういった文体が選択されてきた側面もあるとは思う。でも『天国から来た男』をプレイしてこの「今時珍しい」テキストに触れてみると、選択可能なスタイルの一つというよりは、他にはありえない「コンピュータゲームの文体」みたいなものを、僕は感じる。基本波形から生成された合成音声が「誰の声でもなく」聞こえるように、そこで描写される世界も、なんというか、「誰のものでもない世界」、を描写しているように、僕には感じられる。</p>
				
				<p>■そしてまさしく、その描写によって「誰のものでもない世界」を作ろうとするのが『天国から来た男』というゲームなのだった。そのドラマチックなタイトルとはうらはらに（念のために言っておきますが似たタイトルの映画とは無関係ですよ）、このゲームはドラマチックなストーリーをもたない。そのようなかたちで、ストーリーを実装しない。プレイするたびに再計算される世界と、まったく同格において行動し、対話し、互いに関係する（らしい）プレイヤーを含む登場人物と、経過する３０ 日分の時間単位に含まれる蓋然性が、『天国から来た男』のストーリーのすべてだ。オブジェクトオリエンテッドの世界を、「コンピュータゲームの文体」が物語っていく。『天国から来た男』はそういうゲームである。</p>
				
				<p>■言うまでもないけど、乾いた文体が描写する「誰のものでもない世界」に物語を見ていくのが他ならぬプレイヤーである。天国から来た男であるプレイヤーには、毎日午前零時に天国帰還までの残り日数を知らせる天使のささやきが聞こえる。それはもちろん、システムが決められた文字列を決められたタイミングで表示するにすぎない。でもそれはあるときはさつき書店から自分の部屋に帰りついたときだろうし、あるときは友人の太田圭一郎と話をしている途中だろうし、あるときは付き合いはじめた井上未希と「Ｈ した」あとだろう。毎日くりかえされるまったく同じフレーズに、僕は毎日それぞれ個別の想いを寄せる。正確に言うべきだろう、&#8221;毎日まったく同じフレーズが繰り返されるからこそ、われわれはそこにそれぞれ個別の想いを寄せる。&#8221;</p>
				
				<p>■</p>
				
				<blockquote>
				<pre><code>  
      
          
              天使の声が聞こえた「あと２４ 時間で天国に
              帰還しなければなりません」。
              今日は、地上にとどまる最後の日だ。
          
  
</code></pre>
				</blockquote>
				
				<p>■そしてプレイヤーは３０ 日ののちに天国へ帰還する。ここでゲームはプレイヤーのフェアプレイを称えて、ささやかなボーナスステージを用意するのであるけど、それが何なのかは野暮なので言わない。ていうか、たぶん言うまでもないだろうな。この「リプレイ」を読むためにプレイヤーはこのゲームをプレイするのだ、とか言ってしまってもいいと、僕なんかは思うのだった。</p>
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		<title>think-routine#23　ハイパーリンクの縦糸について</title>
		<link>http://collisions.doppac.cc/archives/27</link>
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		<pubDate>Sat, 23 Feb 2002 15:00:11 +0000</pubDate>
		<dc:creator>dotimpact</dc:creator>
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		<category><![CDATA[think-routine]]></category>

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		<description><![CDATA[featuring 「DT 　Loads of Genomes」 初出：2002-02-24 &#8211; http://www.kaisoku.com/dotimpact/think_23.html - dpi. #02『第２集 クリックすると次のページに進みます』所収文章を（かなり）加筆訂正のうえ再構成しました。 ■ 『ヘラクレス』 大兜虫 Hercules Giant Beetle ▽ ロックが焼き切れた。エルウィンはドアを蹴破って、温室 内に進入した。ハビエルが援護しつつ、それに続く。アー マーを着ないと危険だ。声をかけたが、遅かった。 ▽ ■「DT 　Loads of Genomes」というゲームのストーリーは、公式には二人の主人公をめぐる物語、ということになっているようだけれど、じっさいにはさらに194人（？）の主人公と、その世界をめぐる物語とが、存在している。 ■というのは、このゲームに登場しカードバトルに使用される「DT カード」と呼ばれるバトルカードには、『ホワイトタイガー』『サイエンティスト』『ヒーリング』『ファイヤーシールド』、といったいかにもバトルカード然としたものから、『ジョシコウセイ（女子高生）』『プロボウラー（プロボウラー）』『ハト（鳩）』『ユゲ（湯気）』、といったいかにもバトルカード然としないものまでの（マニュアルに説明されている限りでは）全194 種類があるのだけど、これらカードにはさらに、それぞれのユニットや特殊技能の背景や関連人物を語るみじかい物語が付属しているのだった。プレイヤーはカードを入手するとそのカードに付属する、そのカードをめぐる物語を「ハイパーテキストモード」と呼ばれる本編のストーリーモードとは別のモードで閲覧することができる。さらにそれぞれのカードの物語に登場する専門用語や固有名詞の多くは、その用語を解説するテキストへとリンクされているのであり、その解説に登場する専門用語や固有名詞は、さらにその解説を示すテキストへとリンクされているのであり、それらの膨大なテキストに設定された世界のぜんたいが、いわば「DT 　Loads of Genomes」そのものなわけだ。 ■つまり冒頭のとこにひっぱった文章こそは、DT カード『ヘラクレス』の入手後、ハイパーテキストモードで閲覧することができる物語の最初の１ページなのだった。ご覧の通りである。このカードの物語を開いて目にしたとたん、僕がなんだかすごくうれしくなってしまったのだけど、それはその冒頭がちっとも僕の知っている『ヘラクレス』的ではなかったからで、しかも、にもかかわらす、「DT 　Loads of Genomes」における『ヘラクレス』がどういうものかも同時に理解できた気がしたからで、さらにもしかしたら「ハイパーテキストのゲーム」の可能性をちょっと感じたからからかもしれない。 ■「コンピュータゲームに『フィクション』を感じることというのは、じつはすごく珍しいんじゃないかな」というようなことを、このゲームの第一印象として僕は書いたことがあるのだけど、この印象はゲームをクリアしてもその後プレイを続けていてもあまり変わっていないし、その「フィクション」らしさというのは、このゲームのいちばんおもしろいところなんじゃないだろうか。さっきも書いたとおりこのゲームのテキストには用語と解説、人物とエピソードをつなぐハイパーリンクがはりめぐらされていて、じっさいこのゲームは「世界をハイパーリンクで構築しているゲーム」というように紹介されることが多い。たしかにそれはそうなんだけど、このゲームのおもしろさとしての「ハイパーリンク」については、もうちょっと説明が必要だと僕は思う。どういうことかというと、「DT Loads of Genomes」の世界のハイパーリンクの大部分は、この世界のための造語とか、ストーリーに登場する虚構の人物名に関するものなんだけど、なかにはそうではなくて、われわれがよく知っている一般名詞や固有名詞に関するものがあり、しかもその「われわれがよく知っている一般名詞や固有名詞」に関して、虚構の記述（とか一般的に流通する印象とはかなり異なるエピソード）の記述がかなりの割合で存在するのだった。最初に書いた『ヘラクレス』のエピソード冒頭なんかから想像してもらえるように、知っているものだと決めてかかると面食らうような記述が随所にある。さらにいうと「われわれがよく知っている一般名詞や固有名詞」そのものの（言わずもがなでほとんど意味のない）解説すらも多数用意されていて、たいへん始末に困る。そして当然ながら、その「ハイパーリンク」がどういった性質のものなのかは、カードを入手しその物語を開きリンクをジャンプしてみなければわからないのだ。 ■ちょっとアレな言いになるけど、虚構と虚構、事実と事実のあいだに張られるハイパーリンクをいわば「横糸」だとすると、このゲームはそれに加えて、われわれの知っている『ヘラクレス』と「DT Loads of Genomes」における　『ヘラクレス』とを、われわれの知っている「女子高生」と「ジョシコウセイ」とを、我々の知っている世界と「DT Loads of Genomes」の世界とをとても緊張感を高めるかたちでむすびつける、いわば「縦糸」のリンクをつくることに成功しているのだと僕は思うのだ。現実と虚構との間のハイパーリンクである「縦糸」によって、虚構と虚構を連絡する「横糸」のハイパーリンクの現実感が支えられているわけだ。「DT Loads of Genomes」というゲームが多分に「フィクション」を意識させるのだとすれば、そういった構造にあるんじゃないかと、僕は考えるのだ。 ■ハイパーテキストにおける「ハイパーリンクのジャンプ」というおこないでおもしろいのは、そのジャンプという「アクション」をプレイヤー自身が行うことによって、ジャンプ前のテキストとジャンプ後のテキストの関係というものを、どうやらかなり強力に「信じてしまう」ことなのかもしれない。だとすれば虚構がそれに乗じない手はないのであって、あるいは今までのハイパーテキストというのは行儀が良すぎたのだともいえる。少なくとも、ボタンを押させることでプレイヤーを別世界に誘うべきコンピュータゲームと呼ばれるものにおいては、むしろその「ウソ」を積極的に利用するべき、なのかもしれない。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				<ul>
				<li>featuring 「DT 　Loads of Genomes」</li>
				</ul>
				
				<p>初出：<a href="http://web.archive.org/web/*/http://www.kaisoku.com/dotimpact/think_23.html">2002-02-24 &#8211; http://www.kaisoku.com/dotimpact/think_23.html</a><br />
				- dpi. #02『第２集 クリックすると次のページに進みます』所収文章を（かなり）加筆訂正のうえ再構成しました。</p>
				
				<p><span id="more-27"></span></p>
				
				<hr />
				
				<p>■</p>
				
				<blockquote>
				<pre><code>          
              『ヘラクレス』  
              大兜虫  
              Hercules Giant Beetle
      
      ▽
      
          ロックが焼き切れた。エルウィンはドアを蹴破って、温室
          内に進入した。ハビエルが援護しつつ、それに続く。アー
          マーを着ないと危険だ。声をかけたが、遅かった。
      
      ▽
  
</code></pre>
				</blockquote>
				
				<p>■「DT 　Loads of Genomes」というゲームのストーリーは、公式には二人の主人公をめぐる物語、ということになっているようだけれど、じっさいにはさらに194人（？）の主人公と、その世界をめぐる物語とが、存在している。</p>
				
				<p>■というのは、このゲームに登場しカードバトルに使用される「DT カード」と呼ばれるバトルカードには、『ホワイトタイガー』『サイエンティスト』『ヒーリング』『ファイヤーシールド』、といったいかにもバトルカード然としたものから、『ジョシコウセイ（女子高生）』『プロボウラー（プロボウラー）』『ハト（鳩）』『ユゲ（湯気）』、といったいかにもバトルカード然としないものまでの（マニュアルに説明されている限りでは）全194 種類があるのだけど、これらカードにはさらに、それぞれのユニットや特殊技能の背景や関連人物を語るみじかい物語が付属しているのだった。プレイヤーはカードを入手するとそのカードに付属する、そのカードをめぐる物語を「ハイパーテキストモード」と呼ばれる本編のストーリーモードとは別のモードで閲覧することができる。さらにそれぞれのカードの物語に登場する専門用語や固有名詞の多くは、その用語を解説するテキストへとリンクされているのであり、その解説に登場する専門用語や固有名詞は、さらにその解説を示すテキストへとリンクされているのであり、それらの膨大なテキストに設定された世界のぜんたいが、いわば「DT 　Loads of Genomes」そのものなわけだ。</p>
				
				<p>■つまり冒頭のとこにひっぱった文章こそは、DT カード『ヘラクレス』の入手後、ハイパーテキストモードで閲覧することができる物語の最初の１ページなのだった。ご覧の通りである。このカードの物語を開いて目にしたとたん、僕がなんだかすごくうれしくなってしまったのだけど、それはその冒頭がちっとも僕の知っている『ヘラクレス』的ではなかったからで、しかも、にもかかわらす、「DT 　Loads of Genomes」における『ヘラクレス』がどういうものかも同時に理解できた気がしたからで、さらにもしかしたら「ハイパーテキストのゲーム」の可能性をちょっと感じたからからかもしれない。</p>
				
				<p>■「コンピュータゲームに『フィクション』を感じることというのは、じつはすごく珍しいんじゃないかな」というようなことを、このゲームの第一印象として僕は書いたことがあるのだけど、この印象はゲームをクリアしてもその後プレイを続けていてもあまり変わっていないし、その「フィクション」らしさというのは、このゲームのいちばんおもしろいところなんじゃないだろうか。さっきも書いたとおりこのゲームのテキストには用語と解説、人物とエピソードをつなぐハイパーリンクがはりめぐらされていて、じっさいこのゲームは「世界をハイパーリンクで構築しているゲーム」というように紹介されることが多い。たしかにそれはそうなんだけど、このゲームのおもしろさとしての「ハイパーリンク」については、もうちょっと説明が必要だと僕は思う。どういうことかというと、「DT Loads of Genomes」の世界のハイパーリンクの大部分は、この世界のための造語とか、ストーリーに登場する虚構の人物名に関するものなんだけど、なかにはそうではなくて、われわれがよく知っている一般名詞や固有名詞に関するものがあり、しかもその「われわれがよく知っている一般名詞や固有名詞」に関して、虚構の記述（とか一般的に流通する印象とはかなり異なるエピソード）の記述がかなりの割合で存在するのだった。最初に書いた『ヘラクレス』のエピソード冒頭なんかから想像してもらえるように、知っているものだと決めてかかると面食らうような記述が随所にある。さらにいうと「われわれがよく知っている一般名詞や固有名詞」そのものの（言わずもがなでほとんど意味のない）解説すらも多数用意されていて、たいへん始末に困る。そして当然ながら、その「ハイパーリンク」がどういった性質のものなのかは、カードを入手しその物語を開きリンクをジャンプしてみなければわからないのだ。</p>
				
				<p>■ちょっとアレな言いになるけど、虚構と虚構、事実と事実のあいだに張られるハイパーリンクをいわば「横糸」だとすると、このゲームはそれに加えて、われわれの知っている『ヘラクレス』と「DT Loads of Genomes」における　『ヘラクレス』とを、われわれの知っている「女子高生」と「ジョシコウセイ」とを、我々の知っている世界と「DT Loads of Genomes」の世界とをとても緊張感を高めるかたちでむすびつける、いわば「縦糸」のリンクをつくることに成功しているのだと僕は思うのだ。現実と虚構との間のハイパーリンクである「縦糸」によって、虚構と虚構を連絡する「横糸」のハイパーリンクの現実感が支えられているわけだ。「DT Loads of Genomes」というゲームが多分に「フィクション」を意識させるのだとすれば、そういった構造にあるんじゃないかと、僕は考えるのだ。</p>
				
				<p>■ハイパーテキストにおける「ハイパーリンクのジャンプ」というおこないでおもしろいのは、<em>そのジャンプという「アクション」をプレイヤー自身が行うことによって、ジャンプ前のテキストとジャンプ後のテキストの関係というものを、どうやらかなり強力に「信じてしまう」</em>ことなのかもしれない。だとすれば虚構がそれに乗じない手はないのであって、あるいは今までのハイパーテキストというのは行儀が良すぎたのだともいえる。少なくとも、ボタンを押させることでプレイヤーを別世界に誘うべきコンピュータゲームと呼ばれるものにおいては、むしろその「ウソ」を積極的に利用するべき、なのかもしれない。</p>
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		<title>think-routine #22　アフォーダンスと宮本茂とコードについて</title>
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		<pubDate>Sat, 20 Oct 2001 15:00:23 +0000</pubDate>
		<dc:creator>dotimpact</dc:creator>
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		<category><![CDATA[think-routine]]></category>

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		<description><![CDATA[featuring ローレンス・レッシグ「CODE」 初出：2001-10-21 &#8211; http://www.kaisoku.com/dotimpact/think_22.html ■&#8221;アフォーダンス&#8221;という考えかたを、ご存知だろうか。あるいはそういった言葉そのものはご存知ないかもしれない。でもその考えかたが説明しようとすることについては、たいていの人は思い当たるところがあるんじゃないないかな、と僕は思う。アフォーダンス理論は人やそのほかのどうぶつが環境を認知していくメカニズムを説明する理論であり、「知能」とか「知性」とかいったわれわれがいつのまにか頭のほうに獲得したことになっているあれを再定義する仮説であり、たぶん多くのひとが「おもしろい！」と感じることができる考えかただ。 ■アフォーダンス理論はわれわれのまわりに、「環境」と呼ばれるものが間違いなくあることを、まず重要視する。うごく「環境」があり、うごかない「環境」がある。見える「環境」があり、見えない「環境」がある。これら「環境」にわれわれ（あるいはそのほかのどうぶつ）がふれるとき、それが「意味（ここでは、それによって何かを知ったり役に立ったりする性質とか情報とかだと考えてください。それによって雨をふせいで濡れなくてすむのが傘の『意味』です）」となる、というのがアフォーダンスの主張だ。ここは注意して言わなければならないのだけど、われわれがその「環境」に 「意味」を与えるのでない。そういう「あらかじめわれわれが何かを知っている」という考えかたとは別のところにアフォーダンスの考えかたはある。どうだろう、われわれがたとえば片手でドリームキャスト本体を持つ（ふつうあんまりそういうことはしないだろうけど）とき、われわれ自身がその知識と経験によってなにからなにまでを調節しているというより、むしろドリームキャストに、「ドリームキャストを片手でどう持つかを教えてもらっている」気はしないだろうか。それはかたちであり、重さであり、手ざわりであり、つまりは「環境」である。ドリームキャスト本体という「環境」に、われわれの固有の手のひらがふれるとき、そこにある「意味」によって、片手でのドリームキャストの持ちかたという独特のふるまいが生まれる。その「意味」がどういうものかをもっと知りたければ、手のひらに絵具をつけて何度かドリームキャストをつかんでみるといい。それは産業ロボットがドリームキャストをつかむように正確ではないはずだけど、かといってまったくのアテズッポでもないだろう。その色のつき方がすなわち「ドリームキャストを片手で持つ」という「意味」だと考えることができる（ちなみに実験した後のドリームキャストはオリジナルペイントだといってヤフオクで売るといいだろう）。おわかりだろうか。われわれの持ちかたはわれわれ自身が決めているようでいて、必ずしもそうではない。われわれの歩きかたはわれわれ自身が決めているようでいて、必ずしもそうではない。われわれは気まぐれではなくある種の必然において正確にあくびをかき、のびをし、寝返りを打つ。駅には誰もが２段づつ駆け上がる階段が出現し、日本の大学は日本の大学生の手の高さで壁が汚れていく。同じ街にも人には人の、犬には犬の、猫には猫の地図があり、人道と犬道と猫道ができていく。アフォーダンスとはそういった、世界のひみつに触れる感のある、素敵でたいせつな考えかたである。 ■さて。一方そのころ、宮本茂は「ゼルダの伝説　時のオカリナ」のプロデューサーインタビューにこたえて、こういった発言をしている。 宮本 　(…)今回のゼルダでは、プレイヤーが向こう側に渡りたいと思ってジャンプしているのに、プレイヤーはジャンプボタンを押していないんですよ。 —— すいません、そのことの重要さが今ひとつわからないんですが？ 宮本 　リンクのジャンプは何種類かあるんですが、どの状況で飛ぶかによってジャンプのスタイルが変わるんです。 —— 一回転してビシッと剣を振ったりすることがありますよね。 宮本 　ジャンプする指示も、ジャンプの形を決める指示も、全て踏み切った場所にデータが入っているんです。地形の中にキャクター（原文ママ）を操作したり演出したりする情報が入っているシステムなんですよ。 　　　実は、これはジャンプのまったく新しい「作法」であるだけでなく、3Dのインタラクティブに大きな可能性をもたらすものなんです。簡単に言えばインタラクティブの中に細々と入るムービーの演出なんですが、そのデータを地形に入れ込むというのが新しいんです。(…)この「作法」を推し進めていくと、もっともっと変なゲームがつくれますよ。 &#8211; JK-VOICE with AMIGOS編　『ゼルダの伝説　時のオカリナ　百科』 ■つまり、このインタビューを読んで僕が最初に考えたのがアフォーダンス理論のことだったのだった。もちろん宮本茂の発言にはアフォーダンスなんてひとことも出てこないし、宮本茂自身がアフォーダンス理論に影響をうけたかどうかだってわからない（ふつうそんなわかりやすくモノゴトは進んだりせんでしょう）わけだけど。でもそれはどうあれ、ここで宮本茂がゼルダに実現したと言っているシステムは、「そこにある地形（環境）がプレイヤーのあるべきふるまいを規定していく」という、アフォーダンスの考えかたにかなり近いものになってるんじゃないだろうか。そしてそれに彼は「大きな可能性」を感じているわけだ。 ■たぶんアフォーダンスの考えかたは、現在のコンピュータゲームとは相性がいい。「環境」と自分のふるまいに「意味」を見つけていくダイナミックなプロセスは、コンピュータゲームのインタラクションそのものだし、そのような「環境」を作りこむことが、つまりはコンピュータゲームを作るということだろうから。宮本茂はたぶん、3Dのゲーム空間という「環境」が提供する「意味」にたいして、現在のゲームはそこにあるべき「アクション」を提示しきれていないことを（3Dアクションゲームの致命的な欠陥として）問題にしている。くわえてさらに、そこにある「意味」に見合うふるまいを提供できる限りにおいては、「必ずしもその『アクション』をボタンに割り当てる必要はない」とまで考えているはずだ。だからその「アクション」はプレイヤーキャラクターの操作としてではなく、「特定の地形におけるプレイヤーキャラの自律的なふるまい」として記述される。そのふるまいがプレイヤーがその「環境」に感じる「意味」を十分にカバーするものであれば、そこに（ボタンを押すみたいな）明確な因果がなくても、プレイヤーはそれを「自分のこと」として感じるはずだ。じつはこういう考えかたを僕は過去のゲームに見つけてきてこのサイトで紹介しているつもりだったので、実製作を通じて未来のコンピュータゲームのことを誰よりかんがえている（だろう）宮本さんがそういったゲームのありかたにはっきり言及したうえでそれが「3Dのインタラクティブに大きな可能性をもたらす」、なんて熱っぽく語っているのには（それよりもっと頼もしいのは「もっともっと変なゲームがつくれます」という発言なのだけど）、ザ・わが意を得たりという感じでたいへんよろこばしく僕には思えたのだった。 ■と、いつもならここまでなのだけど、今回もうちょっと話をすすめようと思うのは、宮本茂のこの考えかたが、もういっこのたいせつな考えかたにも似ているからなのだった。そういえば件のインタビューで語られていたシステムの話をまえ友達（ていうか、沢村せんぱい）と話していたら「それって、たとえば「F-ZERO」でダッシュプレートを踏むとプレイヤーマシンが加速する、てのと、どう違うのかな」と言われて、なるほどそういう考えかたもあるなと思ったのだけど、つまり宮本茂のいうシステムは、従来なら目に見えていてプレイヤーが自覚的にそれを選択していたものを、見えなくしてプレイヤーにそれと気づかせないまま自動的に選択させるためのものなのだった。少なくとも、そういう面もある。 ■法律学者のローレンス・レッシグさんは近著『CODE　インターネットの合法・違法・プライバシー』のなかで、われわれの生活におけるさまざまな選択をいろいろなレベルで制限する「規制」を、“法律（それ犯罪じゃん、というあれだ）”、“規範（こんなことしたらかあちゃん泣くだろうな、というあれだ）”、“市場（それにつけても金のなさよ、というあれだ）”、そして“コード（あとから説明）”の４つに分類したうえで、インターネット（それに代表されるサイバースペースを実現するテクノロジー）がほんとうに社会に浸透したとき問題となるのは、４つの「規制」のうちの“コード”、アーキテクチャの規制が支配的になることで、いままではその４つの「規制」をバランスすることで保たれてきた、たとえばいままで憲法で保障されてきたような、素朴だけどたいせつな「人間観」のようなものが破壊される可能性があることだ（いや、たぶん破壊されるだろう）、と指摘する。レッシグが分類するところの、問題だと考えるところの、サイバースペースでの“コード”による規制というのは、人間が従来（あるいは憲法起草時）「物理的に無理」、つまりそれが「自然」だと考えられていた部分を、現在のテクノロジーが「コーディング」できてしまうことで、われわれの選択肢そのものが規制される事態をさしている。法律なら場合によっては破ればいい（捕まるけど）。規範も気にしなければ大丈夫だ（かあちゃんに怒られるけど）。市場がいくら残酷な現実を示しても、たとえば「ときめきメモリアル２：陽ノ下光テレカ１１枚セット＋おまけテレカ　 開始価格2,000,000円」みたいなものがぜったいに入手できないわけじゃない。でも“コード”の規制は、透過的に、でも意図的に、われわれがその世界に触れる方法そのものを規制し、本人にかならずしもそのつもりがないかもしれないにもかかわらず、ふるまいを為政者（サイバースペースにあって、そのアーキテクチャを決めるものは為政者に他ならない）の想定するそれに沿わせることができるわけだ。従来の素朴な「人間観」において、“コード”による規制は、こういうとあれだけど、「詐欺」にちかい。 ■為政者が「自然」をある意図にそって「コーディング」すること。われわれが好むと好まざるとによらず、その「自然」のアーキテクチャに制限され、そうとは知らぬままふるまいが決定されること。ようやく話をもどすけど、宮本茂が考えているシステムは、こういった意味で、“コード”を強化する考えかたでもあると、僕は思う。しかもそれは、宮本さんの発言にアフォーダンス理論をみるのとおんなじ発想においてだと、僕は考える。じつはアフォーダンス理論というのは、「自然」と「人間」がきわめて素朴な形でありのままにあることを前提にしているはずだ。そしてその意味で、コンピュータゲームの世界は素朴な「自然」ではないし、プレイヤーも素朴な「人間」ではない。現在のコンピュータゲームにおいて、アフォーダンス理論に見られるような「自然な」ふるまいをプレイヤーにプレイさせようとするとき、それは“コード”による支配を一歩進めることにもなっている、のじゃないだろうか。 ■そして、こんなふうに考えたうえで、僕は宮本茂の言う「大きな可能性」を大きな可能性として信じていきたい、と思うのだった。コンピュータゲームのインタラクションがわれわれの生理に関するある種の詐術であること。それがエンタテイメントである限りにおいてそれを「自然」と感じ、「自由」と感じてふるまうのであること。それを指して「コンピュータゲームをプレイする」というのだということ。宮本茂の言う「可能性」とは、そのようなコンピュータゲームのプレイグラウンドを広げるものであると、僕は考える。 注釈とか余談 「意味」を与える よくアフォーダンスを説明するときに、「たとえば、椅子は人間が座ることをアフォードしている（アフォーダンスの動詞形。その行為を喚起する、といった意味）」といういいかたをすることがありますけど、これってへたするとアフォーダンスがそういうルールセットとして理解されちゃうんじゃないかという気がして、それでいいのかしらと思います。むしろ、「座ることをアフォードするものを人間は“椅子”と名づけてきた」という歴史があるといったほうが正しいんじゃないかなと。 CODE　インターネットの合法・違法・プライバシー &#8220;CODE and other laws of Cyberspace&#8221; ローレンス・レッシグ 著 / 山形浩生・柏木亮二 訳　翔泳社 / ISBN4-88135-993-2 レッシグ氏の問題空間から“コード”の規制のみをとりだして話をするのは、議論を矮小化しかねないからあんまりよくないんじゃないかとも思います。おもしろい本なので図書館で借りて読むといいです（たとえば著作権に関する議論とか、たいへん勉強になります）。 ゼルダの伝説　時のオカリナ　百科 JK-VOIDe with AMIGOS 編　アスペクト / [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				<ul>
				<li>featuring ローレンス・レッシグ「CODE」</li>
				</ul>
				
				<p>初出：<a href="http://web.archive.org/web/*/http://www.kaisoku.com/dotimpact/think_22.html">2001-10-21 &#8211; http://www.kaisoku.com/dotimpact/think_22.html</a></p>
				
				<p><span id="more-16"></span></p>
				
				<hr />
				
				<p>■&#8221;アフォーダンス&#8221;という考えかたを、ご存知だろうか。あるいはそういった言葉そのものはご存知ないかもしれない。でもその考えかたが説明しようとすることについては、たいていの人は思い当たるところがあるんじゃないないかな、と僕は思う。アフォーダンス理論は人やそのほかのどうぶつが環境を認知していくメカニズムを説明する理論であり、「知能」とか「知性」とかいったわれわれがいつのまにか頭のほうに獲得したことになっているあれを再定義する仮説であり、たぶん多くのひとが「おもしろい！」と感じることができる考えかただ。</p>
				
				<p>■アフォーダンス理論はわれわれのまわりに、「環境」と呼ばれるものが間違いなくあることを、まず重要視する。うごく「環境」があり、うごかない「環境」がある。見える「環境」があり、見えない「環境」がある。これら「環境」にわれわれ（あるいはそのほかのどうぶつ）がふれるとき、それが「意味（ここでは、それによって何かを知ったり役に立ったりする性質とか情報とかだと考えてください。それによって雨をふせいで濡れなくてすむのが傘の『意味』です）」となる、というのがアフォーダンスの主張だ。ここは注意して言わなければならないのだけど、われわれがその「環境」に 「意味」を与えるのでない。そういう「あらかじめわれわれが何かを知っている」という考えかたとは別のところにアフォーダンスの考えかたはある。どうだろう、われわれがたとえば片手でドリームキャスト本体を持つ（ふつうあんまりそういうことはしないだろうけど）とき、われわれ自身がその知識と経験によってなにからなにまでを調節しているというより、むしろドリームキャストに、「ドリームキャストを片手でどう持つかを教えてもらっている」気はしないだろうか。それはかたちであり、重さであり、手ざわりであり、つまりは「環境」である。ドリームキャスト本体という「環境」に、われわれの固有の手のひらがふれるとき、そこにある「意味」によって、片手でのドリームキャストの持ちかたという独特のふるまいが生まれる。その「意味」がどういうものかをもっと知りたければ、手のひらに絵具をつけて何度かドリームキャストをつかんでみるといい。それは産業ロボットがドリームキャストをつかむように正確ではないはずだけど、かといってまったくのアテズッポでもないだろう。その色のつき方がすなわち「ドリームキャストを片手で持つ」という「意味」だと考えることができる（ちなみに実験した後のドリームキャストはオリジナルペイントだといってヤフオクで売るといいだろう）。おわかりだろうか。われわれの持ちかたはわれわれ自身が決めているようでいて、必ずしもそうではない。われわれの歩きかたはわれわれ自身が決めているようでいて、必ずしもそうではない。われわれは気まぐれではなくある種の必然において正確にあくびをかき、のびをし、寝返りを打つ。駅には誰もが２段づつ駆け上がる階段が出現し、日本の大学は日本の大学生の手の高さで壁が汚れていく。同じ街にも人には人の、犬には犬の、猫には猫の地図があり、人道と犬道と猫道ができていく。アフォーダンスとはそういった、世界のひみつに触れる感のある、素敵でたいせつな考えかたである。</p>
				
				<p>■さて。一方そのころ、宮本茂は「ゼルダの伝説　時のオカリナ」のプロデューサーインタビューにこたえて、こういった発言をしている。</p>
				
				<blockquote>
				  <p><em>宮本</em> 　(…)今回のゼルダでは、プレイヤーが向こう側に渡りたいと思ってジャンプしているのに、プレイヤーはジャンプボタンを押していないんですよ。  </p>
				  
				  <p>—— すいません、そのことの重要さが今ひとつわからないんですが？  </p>
				  
				  <p><em>宮本</em> 　リンクのジャンプは何種類かあるんですが、どの状況で飛ぶかによってジャンプのスタイルが変わるんです。</p>
				  
				  <p>—— 一回転してビシッと剣を振ったりすることがありますよね。</p>
				  
				  <p><em>宮本</em> 　ジャンプする指示も、ジャンプの形を決める指示も、全て踏み切った場所にデータが入っているんです。地形の中にキャクター（原文ママ）を操作したり演出したりする情報が入っているシステムなんですよ。<br />
				  　　　実は、これはジャンプのまったく新しい「作法」であるだけでなく、3Dのインタラクティブに大きな可能性をもたらすものなんです。簡単に言えばインタラクティブの中に細々と入るムービーの演出なんですが、そのデータを地形に入れ込むというのが新しいんです。(…)この「作法」を推し進めていくと、もっともっと変なゲームがつくれますよ。</p>
				  
				  <p>&#8211; JK-VOICE with AMIGOS編　『ゼルダの伝説　時のオカリナ　百科』</p>
				</blockquote>
				
				<p>■つまり、このインタビューを読んで僕が最初に考えたのがアフォーダンス理論のことだったのだった。もちろん宮本茂の発言にはアフォーダンスなんてひとことも出てこないし、宮本茂自身がアフォーダンス理論に影響をうけたかどうかだってわからない（ふつうそんなわかりやすくモノゴトは進んだりせんでしょう）わけだけど。でもそれはどうあれ、ここで宮本茂がゼルダに実現したと言っているシステムは、「そこにある地形（環境）がプレイヤーのあるべきふるまいを規定していく」という、アフォーダンスの考えかたにかなり近いものになってるんじゃないだろうか。そしてそれに彼は「大きな可能性」を感じているわけだ。</p>
				
				<p>■たぶんアフォーダンスの考えかたは、現在のコンピュータゲームとは相性がいい。「環境」と自分のふるまいに「意味」を見つけていくダイナミックなプロセスは、コンピュータゲームのインタラクションそのものだし、そのような「環境」を作りこむことが、つまりはコンピュータゲームを作るということだろうから。宮本茂はたぶん、3Dのゲーム空間という「環境」が提供する「意味」にたいして、現在のゲームはそこにあるべき「アクション」を提示しきれていないことを（3Dアクションゲームの致命的な欠陥として）問題にしている。くわえてさらに、そこにある「意味」に見合うふるまいを提供できる限りにおいては、「必ずしもその『アクション』をボタンに割り当てる必要はない」とまで考えているはずだ。だからその「アクション」はプレイヤーキャラクターの操作としてではなく、「特定の地形におけるプレイヤーキャラの自律的なふるまい」として記述される。そのふるまいがプレイヤーがその「環境」に感じる「意味」を十分にカバーするものであれば、そこに（ボタンを押すみたいな）明確な因果がなくても、プレイヤーはそれを「自分のこと」として感じるはずだ。じつはこういう考えかたを僕は過去のゲームに見つけてきてこのサイトで紹介しているつもりだったので、実製作を通じて未来のコンピュータゲームのことを誰よりかんがえている（だろう）宮本さんがそういったゲームのありかたにはっきり言及したうえでそれが「3Dのインタラクティブに大きな可能性をもたらす」、なんて熱っぽく語っているのには（それよりもっと頼もしいのは「もっともっと変なゲームがつくれます」という発言なのだけど）、ザ・わが意を得たりという感じでたいへんよろこばしく僕には思えたのだった。</p>
				
				<p>■と、いつもならここまでなのだけど、今回もうちょっと話をすすめようと思うのは、宮本茂のこの考えかたが、もういっこのたいせつな考えかたにも似ているからなのだった。そういえば件のインタビューで語られていたシステムの話をまえ友達（ていうか、沢村せんぱい）と話していたら「それって、たとえば「F-ZERO」でダッシュプレートを踏むとプレイヤーマシンが加速する、てのと、どう違うのかな」と言われて、なるほどそういう考えかたもあるなと思ったのだけど、つまり宮本茂のいうシステムは、従来なら目に見えていてプレイヤーが自覚的にそれを選択していたものを、見えなくしてプレイヤーにそれと気づかせないまま自動的に選択させるためのものなのだった。少なくとも、そういう面もある。</p>
				
				<p>■法律学者のローレンス・レッシグさんは近著『CODE　インターネットの合法・違法・プライバシー』のなかで、われわれの生活におけるさまざまな選択をいろいろなレベルで制限する「規制」を、“法律（それ犯罪じゃん、というあれだ）”、“規範（こんなことしたらかあちゃん泣くだろうな、というあれだ）”、“市場（それにつけても金のなさよ、というあれだ）”、そして“コード（あとから説明）”の４つに分類したうえで、インターネット（それに代表されるサイバースペースを実現するテクノロジー）がほんとうに社会に浸透したとき問題となるのは、４つの「規制」のうちの“コード”、アーキテクチャの規制が支配的になることで、いままではその４つの「規制」をバランスすることで保たれてきた、たとえばいままで憲法で保障されてきたような、素朴だけどたいせつな「人間観」のようなものが破壊される可能性があることだ（いや、たぶん破壊されるだろう）、と指摘する。レッシグが分類するところの、問題だと考えるところの、サイバースペースでの“コード”による規制というのは、人間が従来（あるいは憲法起草時）「物理的に無理」、つまりそれが「自然」だと考えられていた部分を、現在のテクノロジーが「コーディング」できてしまうことで、われわれの選択肢そのものが規制される事態をさしている。法律なら場合によっては破ればいい（捕まるけど）。規範も気にしなければ大丈夫だ（かあちゃんに怒られるけど）。市場がいくら残酷な現実を示しても、たとえば「ときめきメモリアル２：陽ノ下光テレカ１１枚セット＋おまけテレカ　 開始価格2,000,000円」みたいなものがぜったいに入手できないわけじゃない。でも“コード”の規制は、透過的に、でも意図的に、われわれがその世界に触れる方法そのものを規制し、本人にかならずしもそのつもりがないかもしれないにもかかわらず、ふるまいを為政者（サイバースペースにあって、そのアーキテクチャを決めるものは為政者に他ならない）の想定するそれに沿わせることができるわけだ。従来の素朴な「人間観」において、“コード”による規制は、こういうとあれだけど、「詐欺」にちかい。</p>
				
				<p>■為政者が「自然」をある意図にそって「コーディング」すること。われわれが好むと好まざるとによらず、その「自然」のアーキテクチャに制限され、そうとは知らぬままふるまいが決定されること。ようやく話をもどすけど、宮本茂が考えているシステムは、こういった意味で、“コード”を強化する考えかたでもあると、僕は思う。しかもそれは、宮本さんの発言にアフォーダンス理論をみるのとおんなじ発想においてだと、僕は考える。じつはアフォーダンス理論というのは、「自然」と「人間」がきわめて素朴な形でありのままにあることを前提にしているはずだ。そしてその意味で、コンピュータゲームの世界は素朴な「自然」ではないし、プレイヤーも素朴な「人間」ではない。現在のコンピュータゲームにおいて、アフォーダンス理論に見られるような「自然な」ふるまいをプレイヤーにプレイさせようとするとき、それは“コード”による支配を一歩進めることにもなっている、のじゃないだろうか。</p>
				
				<p>■そして、こんなふうに考えたうえで、僕は宮本茂の言う「大きな可能性」を大きな可能性として信じていきたい、と思うのだった。コンピュータゲームのインタラクションがわれわれの生理に関するある種の詐術であること。それがエンタテイメントである限りにおいてそれを「自然」と感じ、「自由」と感じてふるまうのであること。それを指して「コンピュータゲームをプレイする」というのだということ。宮本茂の言う「可能性」とは、そのようなコンピュータゲームのプレイグラウンドを広げるものであると、僕は考える。</p>
				
				<hr />
				
				<h2>注釈とか余談</h2>
				
				<ul>
				<li>「意味」を与える
				
				<ul>
				<li>よくアフォーダンスを説明するときに、「たとえば、椅子は人間が座ることをアフォードしている（アフォーダンスの動詞形。その行為を喚起する、といった意味）」といういいかたをすることがありますけど、これってへたするとアフォーダンスがそういうルールセットとして理解されちゃうんじゃないかという気がして、それでいいのかしらと思います。むしろ、「座ることをアフォードするものを人間は“椅子”と名づけてきた」という歴史があるといったほうが正しいんじゃないかなと。</li>
				</ul></li>
				<li>CODE　インターネットの合法・違法・プライバシー
				
				<ul>
				<li>&#8220;CODE and other laws of Cyberspace&#8221; ローレンス・レッシグ 著 / 山形浩生・柏木亮二 訳　翔泳社 / ISBN4-88135-993-2</li>
				<li>レッシグ氏の問題空間から“コード”の規制のみをとりだして話をするのは、議論を矮小化しかねないからあんまりよくないんじゃないかとも思います。おもしろい本なので図書館で借りて読むといいです（たとえば著作権に関する議論とか、たいへん勉強になります）。</li>
				</ul></li>
				<li>ゼルダの伝説　時のオカリナ　百科
				
				<ul>
				<li>JK-VOIDe with AMIGOS 編　アスペクト / ISBN4-7572-0396-9</li>
				<li>この攻略本の宮本さんインタビューは、ほかにもいろいろいい発言があっておもしろいです。</li>
				</ul></li>
				<li>詐欺<br />
				>  一人の帽子売りが、大きな木の下に荷を置いて休んでいる。一匹の猿が、帽子売りの帽子を取って木へ逃げる。(…）<br />
				> 　そこで帽子売りはしばらく考え、試してみる価値のあるひとつの方法を思いつく。商品の帽子をひとつ取り、それを自分の頭に乗せてみるのである。木の上の猿も、なるほど帽子とはそうするものかと考えて、帽子を頭に乗せてみる。次に帽子屋はそれを脱いで地面に思い切り叩きつける。帽子をそのように取り扱うやり方もないとは言えない。もちろん、木の上の猿も、そうしてみる。そうしなければいけないものかもしれないからだ。<br />
				>　つまりそのようにして、帽子屋はその帽子を無事取り戻すことができた。（…）もしこの帽子が、もともと猿の所有するものであるとしたら、その時彼の行為は《詐欺》ということになる。言ってみればこの猿は「自分ではまったくその気がないにもかかわらず」「自分の意志で」帽子屋に帽子を渡してしまっているからであり、《詐欺》が成立するためのもっとも特徴的な条件は、まさしくそこにあるからである。<br />
				> &#8211; 別役実　『犯罪症候群』</li>
				</ul>
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		</item>
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		<title>think-routine #19　チャンス・オペレーション</title>
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		<pubDate>Mon, 18 Dec 2000 15:00:36 +0000</pubDate>
		<dc:creator>dotimpact</dc:creator>
				<category><![CDATA[text]]></category>
		<category><![CDATA[think-routine]]></category>

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		<description><![CDATA[featuring 「ルーマニア203」 初出：2000-12-19 &#8211; http://para.tutics.tut.ac.jp/~kotaro/Dotimpact/think_19.html ■たとえば、「ドミノ倒しのゲーム」というものを想像してみていただきたい。プレイヤーはその操作で、目の前に立てられた一枚のドミノを倒すことができる。もちろんそのドミノは次に続くドミノを倒していくのであり、さらにそのドミノはその次のドミノを倒していくのであり、n番目のドミノはn+1番目のドミノを倒していくのであり、倒していくのであり、倒していくのであり、つまりそのようにしてドミノ倒しのプレイが始まる。以後ゲームオーバーまでこのゲームは続くわけだけど、想像に難くないように、プレイヤーは以後のプレイにおいてまったくゲームを操作することができない。でも、「ドミノ倒しをしたい」と考えるプレイヤーは、途中で操作を行いたいとは考えないはずなのだ。先頭のドミノを倒すことのみが、われわれがドミノ倒しをプレイする唯一の方法なのであり、その唯一の方法を通じて、プレイヤーはドミノがひとりでに倒れていく様子を、自分のプレイとして感じることができる。 ■…というのはいちおう単なる冗談なんだけれど、でもじつはこれはすでに、まったく冗談になっていないだろうと僕は思うのだった。「ドミノ倒しのゲーム」みたいなものが実際におもしろくプレイできたりするものかどうかはさておかせてもらうとしても、現在われわれがコンピュータゲームに発想する「ゲーム」というものは、まちがいなくこういうものになりつつあるのだろうと僕は考えている。こういうもの、とは僕なりに言うと、「プレイヤーがほとんどなにもしないまま、『プレイ』が進行していく」ようなゲーム、のことだ。 ■ゲームの本質とはプレイヤーが状況に対して意志決定を行えることだ、という言いかたがあって、じっさいコンピュータゲームについてもちょっと前まではそのような原則に従っていた、と僕は思う。プレイヤーはゲームに決定した意思を伝えるべく操作を行い、またゲームはそのプレイヤーの意志を間違いなく了解してしかるべきふるまいを返す（あるいは何かのかたちでその意思の判定を行う）。ゲームとはプレイヤーの意志に基づく行動、すなわち「アクション」のみにおいて進行するものであり、プレイヤーは自分の意思としての「アクション」がゲームに伝わること（もちろん伝わったからといってそれがうまくいくとは限らないんだけど、その場合もプレイヤーの意志の問題であることは変わらない）を「プレイ」として楽しんでいたはずだ。 ■でも今はそうでもないんじゃないかな、と僕は思うのだった。今ゲームをおもしろくしようとする考えのほとんどは、プレイヤーの意志というものがゲームに「正確に伝わること」ではなくて、「正確には伝わらないこと」（あるいはそのように錯覚させること）を楽しませようとしているように思える。「アクション」がそのまま「プレイ」に反映されるのではなく、なんらかのかたちでクッションさせるような、プレイヤーの意思とは違う、なにか別のものによって「プレイ」が進行するような、確実にプレイヤーが関わっているはずなのに、ほとんど何もしていないように思えるような。今われわれがおもしろがっているゲームの多くは、そういうものになりつつあるんじゃないだろうか。 ■というわけでたいへん能書きが長くなったけどそろそろ「ROOMMANIA #203」の話をしよう。このゲームが「どっちかっていうとダメな大学生ネジタイヘイ君の住むワンルームマンションをのぞいて、彼にイタズラをする」という救いがたくイロモノ的な印象とはうらはらに、そういう下世話な興味にひかれた野次馬すら引っ張り込む巧妙なシナリオ、ビミョーなドラマ、絶妙の演出を楽しませるそれはもう稀有なゲームであることは、発売後時間の経ちすぎた今となっては誰だって知っていることだと思う（僕はといえばいつもながらもイマサラにプレイを始めて、すぐに気に入って、一生懸命クリアして、すごく感銘を受けたところなのだ）。じっさいこのゲームを絶賛する評は、そのシナリオの妙について多くの言葉を尽くしていて、それらに僕もまったく同感なんだけど、さらに僕はここでいまさらなりに「ROOMMANIA #203の見事なシナリオは、どうして可能だったのか？」なんて問を立てたい。前半の能書きをこの問の説明として接続してみようと思う。 ■「ROOMMANIA #203」のシナリオの巧みさは、そこで起きる出来事や進行する展開を「誰か（何か）のせい」にしてしまわないところにある。登場人物は誰ひとりとして自分が決定的なことを行っているとは考えていないのに、事態はどんどん「取り返しがつかなく」なっていく。そういう“日常の正体”がそこにはあるのだ。まあドラマというものはそうでなければならない、ともいえるんだろうけれど、一方でこれはゲームのシナリオとしてはかなり奇妙だろうとも思う。プレイヤーの主観的な意思がその「プレイ」の展開を決定するはずの「ゲーム」というものには、本来こういうシナリオはあり得ないのだ。起きることはすべて間違いなく「プレイヤーのせい」、というシナリオしか成立しない。起きることが「プレイヤーのせい」ではないような、プレイヤーには「どうしようもない」展開というのは、そこではルール違反であるはずだ。 ■つまり、ROOMMANIA #203の見事なシナリオというのは、コンピュータゲームに想定される「プレイヤーのゲームとの関わりかた」が、いままでのように「プレイヤーの意思においてプレイを主導する」ようなものから、それとは違うべつのかたちへと変わったことで、はじめて可能になったものだと僕は思うのだ。ご存じのとおりこのゲームでプレイヤーができることといったら、ネジ君の気持ちにすこしだけちょっかいを出したりとかネジ君がいないすきにさりげなく物の配置を変えたりだとかすることで、ネジ君になにかを「気づいてもらう」ことだけだ。命令するのではなく、教えてやるのですらない。しかもそこでネジ君が何かに気づいたとしても、それはプレイヤーが気づかせたのではなくあくまでネジ「が」気づいたこととして進行する。そういうゲームだ。「ROOMMANIA #203」というゲームでは、プレイヤーの意志、「アクション」が、ゲームの「プレイ」からきわめて巧妙に隠蔽される。ほとんど、その「プレイ」でわれわれが「何もしていない」かのように。でもプレイヤーはそこで、「何もしていない」にもかかわらず、その後進行し展開する「プレイ」に、確かに自分が関わっているという奇妙な感覚を憶えるんじゃないだろうか。プレイヤーは「ROOMMANIA #203」の世界の部外者であることによって、逆説的にその世界に関わることができる。それのみが、「ROOMMANIA #203」をプレイする唯一の方法なのだ。 ■今のゲームが試みるこのての発想というのは、ゲームが「偶然」だとか「必然」だとかいった「どうにもならない」事象を、どうにか表現しようとするたくらみなんじゃないかと、僕は考えている。プレイヤーはもうすでに「プレイヤーに可能なこと」をプレイするのにはすっかり飽きてしまっていて、「プレイヤーに不可能なこと」こそをプレイしたいと思っている。その矛盾した欲望が、このさきコンピュータゲームをさらによくわからないものにしていくんじゃないだろうか。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				<ul>
				<li>featuring 「ルーマニア203」</li>
				</ul>
				
				<p>初出：<a href="http://web.archive.org/web/*/http://para.tutics.tut.ac.jp/~kotaro/Dotimpact/think_19.html">2000-12-19 &#8211; http://para.tutics.tut.ac.jp/~kotaro/Dotimpact/think_19.html</a></p>
				
				<p><span id="more-22"></span></p>
				
				<hr />
				
				<p>■たとえば、「ドミノ倒しのゲーム」というものを想像してみていただきたい。プレイヤーはその操作で、目の前に立てられた一枚のドミノを倒すことができる。もちろんそのドミノは次に続くドミノを倒していくのであり、さらにそのドミノはその次のドミノを倒していくのであり、n番目のドミノはn+1番目のドミノを倒していくのであり、倒していくのであり、倒していくのであり、つまりそのようにしてドミノ倒しのプレイが始まる。以後ゲームオーバーまでこのゲームは続くわけだけど、想像に難くないように、プレイヤーは以後のプレイにおいてまったくゲームを操作することができない。でも、「ドミノ倒しをしたい」と考えるプレイヤーは、途中で操作を行いたいとは考えないはずなのだ。先頭のドミノを倒すことのみが、われわれがドミノ倒しをプレイする唯一の方法なのであり、その唯一の方法を通じて、プレイヤーはドミノがひとりでに倒れていく様子を、自分のプレイとして感じることができる。</p>
				
				<p>■…というのはいちおう単なる冗談なんだけれど、でもじつはこれはすでに、まったく冗談になっていないだろうと僕は思うのだった。「ドミノ倒しのゲーム」みたいなものが実際におもしろくプレイできたりするものかどうかはさておかせてもらうとしても、現在われわれがコンピュータゲームに発想する「ゲーム」というものは、まちがいなくこういうものになりつつあるのだろうと僕は考えている。こういうもの、とは僕なりに言うと、「プレイヤーがほとんどなにもしないまま、『プレイ』が進行していく」ようなゲーム、のことだ。</p>
				
				<p>■ゲームの本質とはプレイヤーが状況に対して意志決定を行えることだ、という言いかたがあって、じっさいコンピュータゲームについてもちょっと前まではそのような原則に従っていた、と僕は思う。プレイヤーはゲームに決定した意思を伝えるべく操作を行い、またゲームはそのプレイヤーの意志を間違いなく了解してしかるべきふるまいを返す（あるいは何かのかたちでその意思の判定を行う）。ゲームとはプレイヤーの意志に基づく行動、すなわち「アクション」のみにおいて進行するものであり、プレイヤーは自分の意思としての「アクション」がゲームに伝わること（もちろん伝わったからといってそれがうまくいくとは限らないんだけど、その場合もプレイヤーの意志の問題であることは変わらない）を「プレイ」として楽しんでいたはずだ。</p>
				
				<p>■でも今はそうでもないんじゃないかな、と僕は思うのだった。今ゲームをおもしろくしようとする考えのほとんどは、プレイヤーの意志というものがゲームに「正確に伝わること」ではなくて、「正確には伝わらないこと」（あるいはそのように錯覚させること）を楽しませようとしているように思える。「アクション」がそのまま「プレイ」に反映されるのではなく、なんらかのかたちでクッションさせるような、プレイヤーの意思とは違う、なにか別のものによって「プレイ」が進行するような、確実にプレイヤーが関わっているはずなのに、ほとんど何もしていないように思えるような。今われわれがおもしろがっているゲームの多くは、そういうものになりつつあるんじゃないだろうか。</p>
				
				<p>■というわけでたいへん能書きが長くなったけどそろそろ「ROOMMANIA #203」の話をしよう。このゲームが「どっちかっていうとダメな大学生ネジタイヘイ君の住むワンルームマンションをのぞいて、彼にイタズラをする」という救いがたくイロモノ的な印象とはうらはらに、そういう下世話な興味にひかれた野次馬すら引っ張り込む巧妙なシナリオ、ビミョーなドラマ、絶妙の演出を楽しませるそれはもう稀有なゲームであることは、発売後時間の経ちすぎた今となっては誰だって知っていることだと思う（僕はといえばいつもながらもイマサラにプレイを始めて、すぐに気に入って、一生懸命クリアして、すごく感銘を受けたところなのだ）。じっさいこのゲームを絶賛する評は、そのシナリオの妙について多くの言葉を尽くしていて、それらに僕もまったく同感なんだけど、さらに僕はここでいまさらなりに「ROOMMANIA #203の見事なシナリオは、どうして可能だったのか？」なんて問を立てたい。前半の能書きをこの問の説明として接続してみようと思う。</p>
				
				<p>■「ROOMMANIA #203」のシナリオの巧みさは、そこで起きる出来事や進行する展開を「誰か（何か）のせい」にしてしまわないところにある。登場人物は誰ひとりとして自分が決定的なことを行っているとは考えていないのに、事態はどんどん「取り返しがつかなく」なっていく。そういう“日常の正体”がそこにはあるのだ。まあドラマというものはそうでなければならない、ともいえるんだろうけれど、一方でこれはゲームのシナリオとしてはかなり奇妙だろうとも思う。プレイヤーの主観的な意思がその「プレイ」の展開を決定するはずの「ゲーム」というものには、本来こういうシナリオはあり得ないのだ。起きることはすべて間違いなく「プレイヤーのせい」、というシナリオしか成立しない。起きることが「プレイヤーのせい」ではないような、プレイヤーには「どうしようもない」展開というのは、そこではルール違反であるはずだ。</p>
				
				<p>■つまり、ROOMMANIA #203の見事なシナリオというのは、コンピュータゲームに想定される「プレイヤーのゲームとの関わりかた」が、いままでのように「プレイヤーの意思においてプレイを主導する」ようなものから、それとは違うべつのかたちへと変わったことで、はじめて可能になったものだと僕は思うのだ。ご存じのとおりこのゲームでプレイヤーができることといったら、ネジ君の気持ちにすこしだけちょっかいを出したりとかネジ君がいないすきにさりげなく物の配置を変えたりだとかすることで、ネジ君になにかを「気づいてもらう」ことだけだ。命令するのではなく、教えてやるのですらない。しかもそこでネジ君が何かに気づいたとしても、それはプレイヤーが気づかせたのではなくあくまでネジ「が」気づいたこととして進行する。そういうゲームだ。<em>「ROOMMANIA #203」というゲームでは、プレイヤーの意志、「アクション」が、ゲームの「プレイ」からきわめて巧妙に隠蔽される。ほとんど、その「プレイ」でわれわれが「何もしていない」かのように。</em>でもプレイヤーはそこで、「何もしていない」にもかかわらず、その後進行し展開する「プレイ」に、確かに自分が関わっているという奇妙な感覚を憶えるんじゃないだろうか。プレイヤーは「ROOMMANIA #203」の世界の部外者であることによって、逆説的にその世界に関わることができる。それのみが、「ROOMMANIA #203」をプレイする唯一の方法なのだ。</p>
				
				<p>■今のゲームが試みるこのての発想というのは、ゲームが「偶然」だとか「必然」だとかいった「どうにもならない」事象を、どうにか表現しようとするたくらみなんじゃないかと、僕は考えている。プレイヤーはもうすでに「プレイヤーに可能なこと」をプレイするのにはすっかり飽きてしまっていて、「プレイヤーに不可能なこと」こそをプレイしたいと思っている。その矛盾した欲望が、このさきコンピュータゲームをさらによくわからないものにしていくんじゃないだろうか。</p>
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		<title>think-routine #20　コンピュータゲームの２０００年について</title>
		<link>http://collisions.doppac.cc/archives/24</link>
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		<pubDate>Sun, 03 Dec 2000 15:00:29 +0000</pubDate>
		<dc:creator>dotimpact</dc:creator>
				<category><![CDATA[text]]></category>
		<category><![CDATA[think-routine]]></category>

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		<description><![CDATA[featuring 「巨人のドシン１」 初出：2000-12-04 &#8211; http://para.tutics.tut.ac.jp/~kotaro/Dotimpact/think_03.html 毎度。いちおう3年目となります棚卸テキストです。2000年にプレイして「これはなんだ」と思いながらもなんかちょっと言いよどんでしまったゲームたちをあらためてちょっと触れていく次第でありますよ。 コンピュータゲームの２０００年について　#1　巨人のドシン１(PARAM,MARIGUL / 64DD) ■なんでも聞くところによると、1999年の12月に発売されたゲームは厳密には2000年のゲームとはいえないらしいんだけど、僕はそういう専門的なことはいまひとつよくわからないから、あんまり気にせずここで取り上げることにしよう。「巨人のドシン１」は2000年のコンピュータゲームである。 ■というか、じっさいに厳密を期すならばこのゲームには「発売日はなかった」と言わなければならない。ランドネットスタータキットとしての64DDに標準添付されるというかたちでかなり少数の人に届けられたこのゲームは、ゲームの中での巨人がそうであるように、それがいつか来ると信じていた島の住人の前にのみ、およそ蜃気楼かなにかのように忽然と登場したのだ。そして、やはりゲームの中での巨人の物語をなぞるように、そのゲームも、その島じたいも、予定していたよりもずっと小さいままで約束された時間を迎え、冷たく動かなくなっていった。それがほんとうにあったものなのか、いまとなってはよくわからない。 ■とかいうのは、まあともかく。なにしろプレイした人がかなり少ないだろう（そして今後触れることになる人に至ってはほとんど皆無だろう）「巨人のドシン１」というゲームのよさを伝えることはなかなかむずかしいのだけど、少なくともこのゲームの「最初の１プレイ」から受ける印象については書いておきたい気がする。それは多くの人が考えるより、ずっとよいものだ。 ■ゲームプレイにおける「ナレーション」（あるいはスポーツゲームの「実況」）とか、いわゆる「オフのセリフ」というのが、前から気になっている。僕がそれに最初に「！」と思ったのはバーニングレンジャーをプレイしたときだったのだけど、プレイヤーが行う言ってしまえば支離滅裂なゲームのプレイに、「ナレーション」がかぶさると、どうもそのプレイ内容が「かけがえのないもの」になっていくような気がするのだ。「巨人のドシン１」のとくに「最初の１プレイ」に僕は、そういう「かけがえのなさ」を、強く感じる。その世界における巨人（つまりプレイヤーだ）というものの驚異が、世界の傍観者の声によって語られ続けるこのゲームで僕は、自分の操作というのがその世界に与える影響に、あらためて驚き、さらにはほとんど恐れることができる。思わずその操作を他ではなく慎重に行ってしまうくらいに。ちなみにこの印象を「第一回の」と限定するのは、そういう感じはやはり回数を重ねると消え去ってしまうからだけど（ナレーションが減っていくということもあるけど）。 ■ゲームのプレイヤーというのは、そこでプレイヤーとしての自分が望む結果をもたらそう、という欲望から操作を入力するわけだけど、同時に「それはゲームにおいてどういうことなのか」ということを確かめたいという欲望も持っている。つまり前者のような主観的な行動としての一貫性と、後者のような客観的な出来事としての（物語としての）一貫性とを、同時にその「プレイ」に観たいと思ってるんじゃないだろうか。いわゆる「美しいプレイ」というのは、おそらくその二つを満たしているもののことだ。そこで行われるプレイ内容を説明する「声」は、後者の意味での、客観的な意味での「プレイ」というものを強く意味づける。このような演出によって、プレイヤーは自分の行動の「正しさ」を（現実にはありえないかたちで）確かめることでき、より深くゲームの「プレイ」にのめりこむことができるのだ。 ■そういえばみんな飽きちゃったのか「映画みたいなゲーム」とかあんま言わなくなってしまったけど、それでも僕はおととし書いた意味での「映画のようなゲームをプレイしたい」という欲望はなくなっていないと思うし、それがどうできるのか、という方法は推し進めるられているはずだと思う。そしてその方法は、みんなが飽きてしまったのとは徹底的にべつのものであるはずだし、じつはいままでだってそうだったんではないかな。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				<ul>
				<li>featuring 「巨人のドシン１」</li>
				</ul>
				
				<p>初出：<a href="http://web.archive.org/web/*/http://para.tutics.tut.ac.jp/~kotaro/Dotimpact/think_03.html">2000-12-04 &#8211; http://para.tutics.tut.ac.jp/~kotaro/Dotimpact/think_03.html</a></p>
				
				<p><span id="more-24"></span></p>
				
				<hr />
				
				<p>毎度。いちおう3年目となります棚卸テキストです。2000年にプレイして「これはなんだ」と思いながらもなんかちょっと言いよどんでしまったゲームたちをあらためてちょっと触れていく次第でありますよ。</p>
				
				<h2>コンピュータゲームの２０００年について　#1　巨人のドシン１(PARAM,MARIGUL / 64DD)</h2>
				
				<p>■なんでも聞くところによると、1999年の12月に発売されたゲームは厳密には2000年のゲームとはいえないらしいんだけど、僕はそういう専門的なことはいまひとつよくわからないから、あんまり気にせずここで取り上げることにしよう。「巨人のドシン１」は2000年のコンピュータゲームである。</p>
				
				<p>■というか、じっさいに厳密を期すならばこのゲームには「発売日はなかった」と言わなければならない。ランドネットスタータキットとしての64DDに標準添付されるというかたちでかなり少数の人に届けられたこのゲームは、ゲームの中での巨人がそうであるように、それがいつか来ると信じていた島の住人の前にのみ、およそ蜃気楼かなにかのように忽然と登場したのだ。そして、やはりゲームの中での巨人の物語をなぞるように、そのゲームも、その島じたいも、予定していたよりもずっと小さいままで約束された時間を迎え、冷たく動かなくなっていった。それがほんとうにあったものなのか、いまとなってはよくわからない。</p>
				
				<p>■とかいうのは、まあともかく。なにしろプレイした人がかなり少ないだろう（そして今後触れることになる人に至ってはほとんど皆無だろう）「巨人のドシン１」というゲームのよさを伝えることはなかなかむずかしいのだけど、少なくともこのゲームの「最初の１プレイ」から受ける印象については書いておきたい気がする。それは多くの人が考えるより、ずっとよいものだ。</p>
				
				<p>■ゲームプレイにおける「ナレーション」（あるいはスポーツゲームの「実況」）とか、いわゆる「オフのセリフ」というのが、前から気になっている。僕がそれに最初に「！」と思ったのはバーニングレンジャーをプレイしたときだったのだけど、プレイヤーが行う言ってしまえば支離滅裂なゲームのプレイに、「ナレーション」がかぶさると、どうもそのプレイ内容が「かけがえのないもの」になっていくような気がするのだ。「巨人のドシン１」のとくに「最初の１プレイ」に僕は、そういう「かけがえのなさ」を、強く感じる。その世界における巨人（つまりプレイヤーだ）というものの驚異が、世界の傍観者の声によって語られ続けるこのゲームで僕は、自分の操作というのがその世界に与える影響に、あらためて驚き、さらにはほとんど恐れることができる。思わずその操作を他ではなく慎重に行ってしまうくらいに。ちなみにこの印象を「第一回の」と限定するのは、そういう感じはやはり回数を重ねると消え去ってしまうからだけど（ナレーションが減っていくということもあるけど）。</p>
				
				<p>■ゲームのプレイヤーというのは、そこでプレイヤーとしての自分が望む結果をもたらそう、という欲望から操作を入力するわけだけど、同時に「それはゲームにおいてどういうことなのか」ということを確かめたいという欲望も持っている。つまり前者のような主観的な行動としての一貫性と、後者のような客観的な出来事としての（物語としての）一貫性とを、同時にその「プレイ」に観たいと思ってるんじゃないだろうか。いわゆる「美しいプレイ」というのは、おそらくその二つを満たしているもののことだ。<em>そこで行われるプレイ内容を説明する「声」は、後者の意味での、客観的な意味での「プレイ」というものを強く意味づける。</em>このような演出によって、プレイヤーは自分の行動の「正しさ」を（現実にはありえないかたちで）確かめることでき、より深くゲームの「プレイ」にのめりこむことができるのだ。</p>
				
				<p>■そういえばみんな飽きちゃったのか「映画みたいなゲーム」とかあんま言わなくなってしまったけど、それでも僕はおととし書いた意味での「映画のようなゲームをプレイしたい」という欲望はなくなっていないと思うし、それがどうできるのか、という方法は推し進めるられているはずだと思う。そしてその方法は、みんなが飽きてしまったのとは徹底的にべつのものであるはずだし、じつはいままでだってそうだったんではないかな。</p>
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		<title>think-routine #18　キャラクタリスティック・ビヘイビア</title>
		<link>http://collisions.doppac.cc/archives/19</link>
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		<pubDate>Sun, 12 Nov 2000 15:00:20 +0000</pubDate>
		<dc:creator>dotimpact</dc:creator>
				<category><![CDATA[text]]></category>
		<category><![CDATA[think-routine]]></category>

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		<description><![CDATA[初出：2000-11-13 &#8211; http://para.tutics.tut.ac.jp/~kotaro/Dotimpact/think_18.html ■いわゆる「キャラゲー」といういいかたを、僕はここのところあんまり口にしないし耳にもしないように思っているのだけれど、これは僕の思い過ごしばかりでもないような気がする。もちろん「キャラゲー」と呼べるゲームがなくなったわけじゃないのだし、むしろそれに当たるゲームは多くなってきていると思えるし、また「キャラゲー」がかつての「キャラゲー」らしくなくなった、というような事情があるわけでもなく、やはりむしろ、「キャラゲー」はより「キャラゲー」らしくなっているという傾向にあると、僕は考える。しかし、にもかかわらず一方でわれわれは、そういうものをあえて「キャラゲー」と呼ぶ必要を感じなくなってきているのかもしれない。今回はそんなことを考え始めてみるのだ。 ■まずはあらためて「キャラゲー」というのは何だったか思い出してみよう。主に漫画やアニメを、あるいはそれらを模した設定を原作として、そのような作品の世界や「キャラクター」をモチーフとして作られたゲームを指す、なんて通りいっぺんの定義が思い浮かぶわけだけれども、もちろんこれはぜんぜん正確じゃない。今ならまだ多くの人が知っているはずだけれども、かつて「キャラゲー」といういいかたは、単に「出来の悪い、注目に値しないゲームである」、ということを指していた言葉で、いわゆる「クソゲー」とほぼ同じ意味で通用していた侮蔑語だったはずだ。じっさい間違いなく「漫画／アニメのキャラが出るゲーム」のほとんどが安易に作られていたり、プレイに堪えないものだったという暗黒時代があったことを、われわれは知っている。 ■ところが、その後「キャラゲー」というものが、そういった軽蔑の対象とは別のステージを獲得していく過程というものも、やはりわれわれは知っているはずだ。僕はそれはスーファミの「ウルトラマン」だとか、ＰＣエンジンＣＤＲＯＭ２の「コブラ」のころからではなかったかと記憶するのだけど、「出来のいい（熱心なファンを満足させる、あるいはその作品に特別な思い入れがなかったとしても十分楽しめる）『キャラゲー』」というものが、「ある種の驚きをもって」ゲーム雑誌なんかで紹介されるようになり、そのような「出来のいい『キャラゲー』」が徐々に増え、さらには、「キャラゲー」はそうであることが期待されるようになるにいたった。つまりそれまではそれこそ「漫画／アニメのキャラが出る」「ゲーム」、いわゆるキャラクター商品としてしか作られていなかった「キャラゲー」というものが、単に版権を借りただけではなく、しかもいわゆる「ゲーム」とは別の、ふさわしいスタイルを確立していく、という流れが確実にあったと思うのだ。それは「キャラゲー」が狙う購入層を、クリスマスに店頭で親にねだって買ってもらうような世代から、前情報からそれを選択して自分の金で購入するような世代へとシフトさせた、といった経緯があるのかもしれないし、またゲーム機のハードスペックの向上（とくには「キャラクター」をちゃんとそれらしく描画できるグラフィック能力とＰＣＭ音源）という面とも無縁ではなかったとは思うんだけど。 ■さてここまで思い出したところで、ようやく「キャラゲー」とは何か、ということが考えられると思う。もちろんキャラクター商品のほうではなくて、われわれがプレイしたいと考える、ある種の「スタイル」を確立しているほうだ。例によって僕の考えを先に述べてしまうことになるけど、たぶん、&#8221;「キャラゲー」とは、そのゲームにおいてプレイヤーが「何ができるか」よりも、「どうできるか」を問題にするゲームのことだ。&#8221;こういうふうに考えると、われわれが「キャラゲー」というものに望んでいるものを説明できると思うし、ひいては今現在「キャラゲー」といういいかたをあんまり必要としなくなっていることも、説明できてしまうだろう。 ■つまり、「キャラゲー」をプレイするわれわれは、それ以上でもそれ以下でもないかたちで、「原作みたいに」プレイしたいと考えるのであり、またその限りにおいては、「そこでどんなゲームが行われてもかまわない」のだろうと、僕は考える。たとえば原作がアクション巨編であるからといってそれらしく作られたアクションゲームよりも、何の必然性もないキーボードタイピングゲームのほうが「北斗の拳っぽい！」と考えるのが「キャラゲー」の精神なんじゃないだろうか。そしてこの精神を推し進めたところに「キャラゲー」のスタイルがある。「キャラゲー」においては、キャラクターの、ひいてはゲームの「それらしさ」が、何よりも重視されなければならない。 ■そしてここまでくれば言ってしまってよいと思うけど、つまり、いまやこのような意味で「キャラゲー」でないゲームが極端に減ってしまったために、おそらくそれを「キャラゲー」とあえて口にする必要はなくなっている、というのが現状なんではないかと思うんだけど、どうだろうか。 注釈とか余談 暗黒時代 とはいえ「オバケのＱ太郎」(BANDAI / FC)とか「仮面ライダー倶楽部」(BANDAI / FC)だとかは（クリアとか目指さない大らかな気持ちでプレイすれば）僕はけっこう楽しいものだったと思っていますよ。そういえば、たぶんバンダイの方だったろうと思いますけれども「当時は数人が１週間徹夜して作ったゲームが、何十万本と売れた」という豪快な懐述をどこかで読んだことがあります。 数人が徹夜で。うぉう。 と記憶する もちろんそれ以前にだってそういう「キャラゲー」もありました。「キャプテン翼」(TECMO / FC)なんてのはそんな感じじゃないでしょうか。あと版権ものではあるけどまったく内容を変えてしまって、へたをすると（ていうか原作がへたをしてるので）ゲームのほうがおもしろいよ、というような変わった作品もわりとありますよね。「ガンヘッド」(HUDSON(COMPLE) / PC-Enjine)とか「スゥイートホーム」(CAPCOM / FC)なんてのが容易に思い出されますけれども。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				<p>初出：<a href="http://web.archive.org/web/*/http://para.tutics.tut.ac.jp/~kotaro/Dotimpact/think_18.html">2000-11-13 &#8211; http://para.tutics.tut.ac.jp/~kotaro/Dotimpact/think_18.html</a></p>
				
				<p><span id="more-19"></span></p>
				
				<hr />
				
				<p>■いわゆる「キャラゲー」といういいかたを、僕はここのところあんまり口にしないし耳にもしないように思っているのだけれど、これは僕の思い過ごしばかりでもないような気がする。もちろん「キャラゲー」と呼べるゲームがなくなったわけじゃないのだし、むしろそれに当たるゲームは多くなってきていると思えるし、また「キャラゲー」がかつての「キャラゲー」らしくなくなった、というような事情があるわけでもなく、やはりむしろ、「キャラゲー」はより「キャラゲー」らしくなっているという傾向にあると、僕は考える。しかし、にもかかわらず一方でわれわれは、そういうものをあえて「キャラゲー」と呼ぶ必要を感じなくなってきているのかもしれない。今回はそんなことを考え始めてみるのだ。</p>
				
				<p>■まずはあらためて「キャラゲー」というのは何だったか思い出してみよう。主に漫画やアニメを、あるいはそれらを模した設定を原作として、そのような作品の世界や「キャラクター」をモチーフとして作られたゲームを指す、なんて通りいっぺんの定義が思い浮かぶわけだけれども、もちろんこれはぜんぜん正確じゃない。今ならまだ多くの人が知っているはずだけれども、かつて「キャラゲー」といういいかたは、単に「出来の悪い、注目に値しないゲームである」、ということを指していた言葉で、いわゆる「クソゲー」とほぼ同じ意味で通用していた侮蔑語だったはずだ。じっさい間違いなく「漫画／アニメのキャラが出るゲーム」のほとんどが安易に作られていたり、プレイに堪えないものだったという暗黒時代があったことを、われわれは知っている。</p>
				
				<p>■ところが、その後「キャラゲー」というものが、そういった軽蔑の対象とは別のステージを獲得していく過程というものも、やはりわれわれは知っているはずだ。僕はそれはスーファミの「ウルトラマン」だとか、ＰＣエンジンＣＤＲＯＭ２の「コブラ」のころからではなかったかと記憶するのだけど、「出来のいい（熱心なファンを満足させる、あるいはその作品に特別な思い入れがなかったとしても十分楽しめる）『キャラゲー』」というものが、「ある種の驚きをもって」ゲーム雑誌なんかで紹介されるようになり、そのような「出来のいい『キャラゲー』」が徐々に増え、さらには、「キャラゲー」はそうであることが期待されるようになるにいたった。つまりそれまではそれこそ「漫画／アニメのキャラが出る」「ゲーム」、いわゆるキャラクター商品としてしか作られていなかった「キャラゲー」というものが、単に版権を借りただけではなく、しかもいわゆる「ゲーム」とは別の、ふさわしいスタイルを確立していく、という流れが確実にあったと思うのだ。それは「キャラゲー」が狙う購入層を、クリスマスに店頭で親にねだって買ってもらうような世代から、前情報からそれを選択して自分の金で購入するような世代へとシフトさせた、といった経緯があるのかもしれないし、またゲーム機のハードスペックの向上（とくには「キャラクター」をちゃんとそれらしく描画できるグラフィック能力とＰＣＭ音源）という面とも無縁ではなかったとは思うんだけど。</p>
				
				<p>■さてここまで思い出したところで、ようやく「キャラゲー」とは何か、ということが考えられると思う。もちろんキャラクター商品のほうではなくて、われわれがプレイしたいと考える、ある種の「スタイル」を確立しているほうだ。例によって僕の考えを先に述べてしまうことになるけど、たぶん、&#8221;「キャラゲー」とは、そのゲームにおいてプレイヤーが「何ができるか」よりも、「どうできるか」を問題にするゲームのことだ。&#8221;こういうふうに考えると、われわれが「キャラゲー」というものに望んでいるものを説明できると思うし、ひいては今現在「キャラゲー」といういいかたをあんまり必要としなくなっていることも、説明できてしまうだろう。</p>
				
				<p>■つまり、「キャラゲー」をプレイするわれわれは、それ以上でもそれ以下でもないかたちで、「原作みたいに」プレイしたいと考えるのであり、またその限りにおいては、「そこでどんなゲームが行われてもかまわない」のだろうと、僕は考える。たとえば原作がアクション巨編であるからといってそれらしく作られたアクションゲームよりも、何の必然性もないキーボードタイピングゲームのほうが「北斗の拳っぽい！」と考えるのが「キャラゲー」の精神なんじゃないだろうか。そしてこの精神を推し進めたところに「キャラゲー」のスタイルがある。「キャラゲー」においては、キャラクターの、ひいてはゲームの「それらしさ」が、何よりも重視されなければならない。</p>
				
				<p>■そしてここまでくれば言ってしまってよいと思うけど、つまり、いまやこのような意味で「キャラゲー」でないゲームが極端に減ってしまったために、おそらくそれを「キャラゲー」とあえて口にする必要はなくなっている、というのが現状なんではないかと思うんだけど、どうだろうか。</p>
				
				<hr />
				
				<h2>注釈とか余談</h2>
				
				<ul>
				<li>暗黒時代
				
				<ul>
				<li>とはいえ「オバケのＱ太郎」(BANDAI / FC)とか「仮面ライダー倶楽部」(BANDAI / FC)だとかは（クリアとか目指さない大らかな気持ちでプレイすれば）僕はけっこう楽しいものだったと思っていますよ。そういえば、たぶんバンダイの方だったろうと思いますけれども「当時は数人が１週間徹夜して作ったゲームが、何十万本と売れた」という豪快な懐述をどこかで読んだことがあります。 数人が徹夜で。うぉう。</li>
				</ul></li>
				<li>と記憶する
				
				<ul>
				<li>もちろんそれ以前にだってそういう「キャラゲー」もありました。「キャプテン翼」(TECMO / FC)なんてのはそんな感じじゃないでしょうか。あと版権ものではあるけどまったく内容を変えてしまって、へたをすると（ていうか原作がへたをしてるので）ゲームのほうがおもしろいよ、というような変わった作品もわりとありますよね。「ガンヘッド」(HUDSON(COMPLE) / PC-Enjine)とか「スゥイートホーム」(CAPCOM / FC)なんてのが容易に思い出されますけれども。</li>
				</ul></li>
				</ul>
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		<title>think-routine #17　フリー・フォール</title>
		<link>http://collisions.doppac.cc/archives/14</link>
		<comments>http://collisions.doppac.cc/archives/14#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 11 Sep 2000 15:00:05 +0000</pubDate>
		<dc:creator>dotimpact</dc:creator>
				<category><![CDATA[text]]></category>
		<category><![CDATA[think-routine]]></category>

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		<description><![CDATA[featuring 「ミスタードリラー」 初出：2000-09-12 &#8211; http://para.tutics.tut.ac.jp/~kotaro/Dotimpact/think_17.html ■「上達するゲーム」ではなく、「慣れるゲーム」なのだ、というのは僕としてはなかなかの思いつきだと勝手に思っていたんだけど、実際にはむしろ話をややこしくするだけだったのかもしれない。そんなわけで、「ミスタードリラー」をもう一度ゼロメートルからリトライすることにしよう。たぶん、いや間違いなく前回とは別の掘りかたをすることになると思うけど、目指すのは同じ地下1000ｍなのだとご理解いただきたく思うよ。ではあらためて。 ■ポップな色、チャーミングなキャラクター、そしてシンプルなルール（に似合わぬ意外な手強さ）。誰もがそう思うように「ミスタードリラー」はいわゆる「『ナムコ黄金期』を彷彿とさせる」デザインがなされたビデオゲームだ。このゲームの人気がこのちょっとご無沙汰していた雰囲気に大きく依っているのは間違いないところで、しかもその「ナムコ黄金期」の輝かしいビデオゲームたちを知っていればこそ、ともすれば「ミスタードリラー」をそれらのゲームと重ねてしまうんではないだろうか。でも、ここに関して言えば僕は、ちょっと違う意見を持っているのだった。つまり、その意匠がかつてのそれを踏襲しているとしても「ミスタードリラー」というのは確実に今のゲームだということ。逆にいえば、「ミスタードリラー」というのは、「黄金期」にでも作れそうでいて実はありえないタイプのゲームなのだろうと、僕は思っている。 ■「黄金期」のゲームと今のゲームで大きく違うのは、広い意味での「シミュレーション」という考えかたの有無、なんではないかなというのが僕の考えだ。すでにこのサイトで何度か言おうとしているところだけど、ここのところのゲームには、静的なルールとそれに対応する確実なアクション、という昔からそれがゲームだと言われてきたものではつかみきれないところがあって、それはもしかしたら、もう少し先のコンピュータゲームというものが半キャラくらい見えている、ということなのかもしれない、と僕は思っている。そしてその、いわゆるゲームでは「つかみきれないところ」こそが、「シミュレーション」というものの考えかたのことであるはずだ。 ■そう、つまり「ミスタードリラー」というゲームをシンプルなルールのパズルアクションではなくて、ある特殊な環境のシミュレータだと考えると、「黄金期」のゲームとの違いを説明できると思う。重力が常に真下に働き、同じ色のブロックがくっつき、同色ブロックが４つ以上くっついた場合は消滅する、という「環境」のシミュレータ。そのような「環境」でプレイヤーがブロックを掘ったり避けたりすることが「ミスタードリラー」という「ゲーム」になっているわけだ。ここでは、そのような「環境」とそのような「ゲーム」とは原理的には一切関係がない。「環境」はあくまで独自にその環境のルールに従うのであり、「ゲーム」もまた独自にゲームのルールにおいて運営される。実際にはほとんどの場合、それらは単にひとつのものとして見えているのだけど、ごくたまに、その「環境」と「ゲーム」が別々のものであることを、われわれに強烈に意識させる瞬間がある。「ミスタードリラー」で、自分の操作するススム君がすでにブロックに押しつぶされてミスしているにもかかわらず、ブロックの連鎖消滅がなかなか収束せずプレイが再開しない、という状況に出くわしたことはないだろうか？　つまりそこで、ミスタードリラーと呼ばれるものは、実際にはわれわれの「ゲーム」など少しも慮っていないのである。 ■念を押していうと、もちろん「ディグダグ」の岩も地球の中心に向かって落ちるけど、それはモンスターを（時にはプレイヤーを）つぶすために恣意的にそうであるに過ぎない。「ディグダグ」というゲームは、あくまでプレイヤーがプレイするための「ゲーム」なわけだ（なんとまあおあつらえむけなことに、ディグダグというゲームにはそれを裏付ける証拠すらある。このゲームはプレイヤーが操作をしないかぎり、BGMすら止まっているんである！）。さらにさらに加えて言うのだけど、僕は「ミスタードリラー」というゲームが、実はそのような深い考えの元に作られているのだぜ、なんても言うつもりはないよ。そうではなくて、作る側もプレイする側も、すでにとくべつに意識しなくてもそのような「環境」の介在を受け入れることができるのだ、ということ。かつてのゲームのことも忘れていない「今」のゲームがあるということ。ナムコとかわれわれとか人類とかは、確実に「黄金期」よりも深いところへと掘り進みつつあるということ。そんなふうに考えると気分がよいんじゃないだろうか。 注釈とか余談 何度か言おうと 「#14　ビデオゲーム：１９９９　#2　クレイジータクシー」の項、「ゼルダの伝説　ムジュラの仮面」について書きました「#16　フォービドゥン・インターフェイス」の項なんかは似たような考えかたでそれぞれのゲームを扱おうとしています。ご参照あれ。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				<ul>
				<li>featuring 「ミスタードリラー」</li>
				</ul>
				
				<p>初出：<a href="http://web.archive.org/web/*/http://para.tutics.tut.ac.jp/~kotaro/Dotimpact/think_17.html">2000-09-12 &#8211; http://para.tutics.tut.ac.jp/~kotaro/Dotimpact/think_17.html</a></p>
				
				<p><span id="more-14"></span></p>
				
				<hr />
				
				<p>■「上達するゲーム」ではなく、「慣れるゲーム」なのだ、というのは僕としてはなかなかの思いつきだと勝手に思っていたんだけど、実際にはむしろ話をややこしくするだけだったのかもしれない。そんなわけで、「ミスタードリラー」をもう一度ゼロメートルからリトライすることにしよう。たぶん、いや間違いなく前回とは別の掘りかたをすることになると思うけど、目指すのは同じ地下1000ｍなのだとご理解いただきたく思うよ。ではあらためて。</p>
				
				<p>■ポップな色、チャーミングなキャラクター、そしてシンプルなルール（に似合わぬ意外な手強さ）。誰もがそう思うように「ミスタードリラー」はいわゆる「『ナムコ黄金期』を彷彿とさせる」デザインがなされたビデオゲームだ。このゲームの人気がこのちょっとご無沙汰していた雰囲気に大きく依っているのは間違いないところで、しかもその「ナムコ黄金期」の輝かしいビデオゲームたちを知っていればこそ、ともすれば「ミスタードリラー」をそれらのゲームと重ねてしまうんではないだろうか。でも、ここに関して言えば僕は、ちょっと違う意見を持っているのだった。つまり、その意匠がかつてのそれを踏襲しているとしても「ミスタードリラー」というのは確実に今のゲームだということ。逆にいえば、「ミスタードリラー」というのは、「黄金期」にでも作れそうでいて実はありえないタイプのゲームなのだろうと、僕は思っている。</p>
				
				<p>■「黄金期」のゲームと今のゲームで大きく違うのは、広い意味での「シミュレーション」という考えかたの有無、なんではないかなというのが僕の考えだ。すでにこのサイトで何度か言おうとしているところだけど、ここのところのゲームには、静的なルールとそれに対応する確実なアクション、という昔からそれがゲームだと言われてきたものではつかみきれないところがあって、それはもしかしたら、もう少し先のコンピュータゲームというものが半キャラくらい見えている、ということなのかもしれない、と僕は思っている。そしてその、いわゆるゲームでは「つかみきれないところ」こそが、「シミュレーション」というものの考えかたのことであるはずだ。</p>
				
				<p>■そう、つまり「ミスタードリラー」というゲームをシンプルなルールのパズルアクションではなくて、ある特殊な環境のシミュレータだと考えると、「黄金期」のゲームとの違いを説明できると思う。重力が常に真下に働き、同じ色のブロックがくっつき、同色ブロックが４つ以上くっついた場合は消滅する、という「環境」のシミュレータ。そのような「環境」でプレイヤーがブロックを掘ったり避けたりすることが「ミスタードリラー」という「ゲーム」になっているわけだ。ここでは、そのような「環境」とそのような「ゲーム」とは原理的には一切関係がない。「環境」はあくまで独自にその環境のルールに従うのであり、「ゲーム」もまた独自にゲームのルールにおいて運営される。実際にはほとんどの場合、それらは単にひとつのものとして見えているのだけど、ごくたまに、その「環境」と「ゲーム」が別々のものであることを、われわれに強烈に意識させる瞬間がある。「ミスタードリラー」で、自分の操作するススム君がすでにブロックに押しつぶされてミスしているにもかかわらず、ブロックの連鎖消滅がなかなか収束せずプレイが再開しない、という状況に出くわしたことはないだろうか？　つまりそこで、ミスタードリラーと呼ばれるものは、実際にはわれわれの「ゲーム」など少しも慮っていないのである。</p>
				
				<p>■念を押していうと、もちろん「ディグダグ」の岩も地球の中心に向かって落ちるけど、それはモンスターを（時にはプレイヤーを）つぶすために恣意的にそうであるに過ぎない。「ディグダグ」というゲームは、あくまでプレイヤーがプレイするための「ゲーム」なわけだ（なんとまあおあつらえむけなことに、ディグダグというゲームにはそれを裏付ける証拠すらある。このゲームはプレイヤーが操作をしないかぎり、BGMすら止まっているんである！）。さらにさらに加えて言うのだけど、僕は「ミスタードリラー」というゲームが、実はそのような深い考えの元に作られているのだぜ、なんても言うつもりはないよ。そうではなくて、作る側もプレイする側も、すでにとくべつに意識しなくてもそのような「環境」の介在を受け入れることができるのだ、ということ。かつてのゲームのことも忘れていない「今」のゲームがあるということ。ナムコとかわれわれとか人類とかは、確実に「黄金期」よりも深いところへと掘り進みつつあるということ。そんなふうに考えると気分がよいんじゃないだろうか。</p>
				
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				<h2>注釈とか余談</h2>
				
				<ul>
				<li>何度か言おうと
				
				<ul>
				<li>「#14　ビデオゲーム：１９９９　#2　クレイジータクシー」の項、「ゼルダの伝説　ムジュラの仮面」について書きました「#16　フォービドゥン・インターフェイス」の項なんかは似たような考えかたでそれぞれのゲームを扱おうとしています。ご参照あれ。</li>
				</ul></li>
				</ul>
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		<title>think-routine #16　フォービドゥン・インターフェイス</title>
		<link>http://collisions.doppac.cc/archives/17</link>
		<comments>http://collisions.doppac.cc/archives/17#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 10 Jul 2000 15:00:01 +0000</pubDate>
		<dc:creator>dotimpact</dc:creator>
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		<category><![CDATA[think-routine]]></category>

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		<description><![CDATA[featuring 「ゼルダの伝説　ムジュラの仮面」 初出：2000-07-11 &#8211; http://para.tutics.tut.ac.jp/~kotaro/Dotimpact/think_16.html ■それはあまりにも自然に組み込まれてしまい、われわれはまんまとそのことを忘れているように思うので、まずここで確認しておくのだけど、「ゼルダの伝説」というシリーズは、別に昔から「時間」というものをゲームのモチーフとして据えていた、というわけではないのである。それはNintendo64版のシリーズから、つまり前作「ゼルダの伝説　時のオカリナ」から、あえていえば「突然」盛り込まれたモチーフにすぎない。でも、なのにもかかわらず、続く新作「ゼルダの伝説　ムジュラの仮面」をプレイしてみれば、その「時間」というモチーフは、すでに「ゼルダの伝説」というシリーズの根幹をなすものになっているように僕には感じられるのだった。今後この作品がさらなる続編を発表するとしても、その作品から「時間」が失われることはありえないだろう、と僕は思うのだけど、どうだろうか。 ■ゼルダがどうして「時間」を導入したか、なんてことは一概に言えたりはしないかもしれないんだけど、たとえばこんな風に考えられるんではないかと僕は思う。つまり、この「時間」が、「64のマリオ」と「64のゼルダ」を明確に別のゲームにする、というようなこと。かつて別のものだった「アクションゲーム」と「（いわゆる）アクションRPG」が、ここへきてほぼ同じ「アクション」を獲得したんではないか、というのが前作のときに僕が言おうとしたことだったわけだけど、その「アクション」、つまり「プレイヤーのできること」にほぼ同じ環境を提供した後でなお、「マリオ」と「ゼルダ」を区別しようとするとき、そこに「時間」のようなものを必要としたのだろうと、僕は考えている。 ■さて、新しい「ゼルダの伝説」における「時間」とはなにか。まずそれは言うまでもなく、「新しい箱庭」だということだろう。われわれがブーメランを手に入れたといって一回りし、フックショットを手に入れたといっては２回りする世界が、さらにもうひとつの軸に沿って広がっているというわけだ。でももちろん、扱われる世界が広がったからといって「マリオ」と「ゼルダ」が区別できるわけでもないだろう。僕がもう一つ考えるのは、ゲームに「時間」が導入することで、「ゼルダ」は、たとえば「マリオ」がそうであるようないわば「アクションゲームの世界観」のようなものから抜け出ようとしているんではないか、というようなことだ。 ■さてここからはネタバレだ。「ゼルダの伝説　ムジュラの仮面」が、「今回リンクは巨大な月が落下してくる世界を救う冒険をする。残された時間は３日間」といったあらすじのゲームであるのはどなたもご存知のことだと思う。もちろんそれはあらすじとして間違っていないのだけど、ところが、実際の「ゼルダの伝説　ムジュラの仮面」でプレイヤーは、ぜんぜんそういうゲームをプレイしないのである（正確に言うと、「最初」だけはそういうゲームだと言ってもいいのだけど）。プレイヤーがプレイするのは「残された時間が３日間になった世界と時間を共にする」というゲームだ。なんだ同じじゃないかと思われるかもしれないが、これは違う。このゲームでの「３日間」という時間は、あくまでこのゲームの「世界」に係わるものであって、プレイヤーに係わるものではないのだ。だから、「３日間」はあらすじから素朴に連想されるようにゲームの「制限時間」なわけではまったくない。しかしやはり、その世界は「３日間」で終わるべく（プレイヤーも含めた）ヒトもモノも進行していくのだ。しかも、何度も（！）。つまりこのあたりがこの世界の、つまりこのゲームの最大の魅力なんであって、こんなところでバラしちゃうと怒られちゃうのかもしれないけど（お面屋のオッサンあたりに）。 ■たとえば「マリオ」のような、純粋なアクションゲームであれば、「３日間で月が落ちてくる」となればそれは間違いなく「制限時間」という「ゲームを構成するルール」になっていることだろう。それがルールである、ということは、期限になれば確実にゲームオーバーになるということだけど、逆に言えば、その制限時間内であれば（つまりルールに抵触しなければ）、プレイヤーはどこにどのように時間を使っても（使わなくても）、かまわないことになっている。ゲームの「世界」というのは、多くの場合そういうプレイヤーにとって「自由な」ものだったはずだ（つまりこれが「アクションゲームの世界観」である）。しかし、新しい「ゼルダ」にあるような、僕がここで説明しようとしている「時間」は、上に書いたような意味での「ルール」ではない。それはプレイヤーのために用意されるのではなく、あくまで「世界」のために用意されるシステムである。したがってプレイヤーはその「時間」そのものには何も可能にされず、また何も制限されないのだけど、実際にプレイヤーがその「世界」をプレイするためには、常にその「時間」に関わらなければならないのだった。こういう、プレイヤーからあえていえば、「不自由」で「不条理」なシステムが、ゲームにおける「時間」だ。 ■本来ゲームというものがルールに従った「アクション」のみによってプレイを進行させるものだとすると、ルールとは別の、「アクション」ともほぼ無関係の要素として、プレイヤーにある意味先んじてプレイが進行させようとする「時間」というものをどう考えればよいのか、というと、こんな風に考えられると僕は思う。つまり、&#8221;プレイヤーにとってゲームの「時間」とは、そのゲームの「世界」をプレイするための、「アクション」とは別のインターフェイスなのだ。&#8221;「アクション」が「プレイヤーに可能なこと」によってゲームの「世界」をプレイするインターフェイスだとすると、「時間」は、「プレイヤーに不可能なこと」を通じてゲームの「世界」をプレイするインターフェイスだと言える。「『プレイヤーに不可能なこと』を通じてゲームの『世界』をプレイする」というのはかなり奇妙な考えかたなんだけど、つまりそこに「時間」が介在することで、プレイヤーはその「世界」で「何かをする」ことではもちろん、「何もしない」ことでも、その「世界」が変わっていくのを見ることができるわけだ。「何もしない」ことで世界に触れるインターフェイス。その世界を「時間」を通じて見ることによって、プレイヤーは「その世界で自分に何ができて、何ができないか」を正確に知ることになるだろう。 ■だからもう一度言うけど、「ゼルダの伝説　ムジュラの仮面」というゲームでプレイヤーがプレイするのは、「残された時間が３日間になった世界と時間を共にする」ゲームである。もちろん多くのリンクはその世界を救うことになるのだろうけど、でもそれもやっぱり「残された時間が３日間となった世界と時間を共にする」方法の一つに過ぎない、と言わなければならないのだった。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				<ul>
				<li>featuring 「ゼルダの伝説　ムジュラの仮面」</li>
				</ul>
				
				<p>初出：<a href="http://web.archive.org/web/*/http://para.tutics.tut.ac.jp/~kotaro/Dotimpact/think_16.html">2000-07-11 &#8211; http://para.tutics.tut.ac.jp/~kotaro/Dotimpact/think_16.html</a>  </p>
				
				<p><span id="more-17"></span></p>
				
				<hr />
				
				<p>■それはあまりにも自然に組み込まれてしまい、われわれはまんまとそのことを忘れているように思うので、まずここで確認しておくのだけど、「ゼルダの伝説」というシリーズは、別に昔から「時間」というものをゲームのモチーフとして据えていた、というわけではないのである。それはNintendo64版のシリーズから、つまり前作「ゼルダの伝説　時のオカリナ」から、あえていえば「突然」盛り込まれたモチーフにすぎない。でも、なのにもかかわらず、続く新作「ゼルダの伝説　ムジュラの仮面」をプレイしてみれば、その「時間」というモチーフは、すでに「ゼルダの伝説」というシリーズの根幹をなすものになっているように僕には感じられるのだった。今後この作品がさらなる続編を発表するとしても、その作品から「時間」が失われることはありえないだろう、と僕は思うのだけど、どうだろうか。</p>
				
				<p>■ゼルダがどうして「時間」を導入したか、なんてことは一概に言えたりはしないかもしれないんだけど、たとえばこんな風に考えられるんではないかと僕は思う。つまり、この「時間」が、「64のマリオ」と「64のゼルダ」を明確に別のゲームにする、というようなこと。かつて別のものだった「アクションゲーム」と「（いわゆる）アクションRPG」が、ここへきてほぼ同じ「アクション」を獲得したんではないか、というのが前作のときに僕が言おうとしたことだったわけだけど、その「アクション」、つまり「プレイヤーのできること」にほぼ同じ環境を提供した後でなお、「マリオ」と「ゼルダ」を区別しようとするとき、そこに「時間」のようなものを必要としたのだろうと、僕は考えている。</p>
				
				<p>■さて、新しい「ゼルダの伝説」における「時間」とはなにか。まずそれは言うまでもなく、「新しい箱庭」だということだろう。われわれがブーメランを手に入れたといって一回りし、フックショットを手に入れたといっては２回りする世界が、さらにもうひとつの軸に沿って広がっているというわけだ。でももちろん、扱われる世界が広がったからといって「マリオ」と「ゼルダ」が区別できるわけでもないだろう。僕がもう一つ考えるのは、ゲームに「時間」が導入することで、「ゼルダ」は、たとえば「マリオ」がそうであるようないわば「アクションゲームの世界観」のようなものから抜け出ようとしているんではないか、というようなことだ。</p>
				
				<p>■さてここからはネタバレだ。「ゼルダの伝説　ムジュラの仮面」が、「今回リンクは巨大な月が落下してくる世界を救う冒険をする。残された時間は３日間」といったあらすじのゲームであるのはどなたもご存知のことだと思う。もちろんそれはあらすじとして間違っていないのだけど、ところが、実際の「ゼルダの伝説　ムジュラの仮面」でプレイヤーは、ぜんぜんそういうゲームをプレイしないのである（正確に言うと、「最初」だけはそういうゲームだと言ってもいいのだけど）。プレイヤーがプレイするのは「残された時間が３日間になった世界と時間を共にする」というゲームだ。なんだ同じじゃないかと思われるかもしれないが、これは違う。このゲームでの「３日間」という時間は、あくまでこのゲームの「世界」に係わるものであって、プレイヤーに係わるものではないのだ。だから、「３日間」はあらすじから素朴に連想されるようにゲームの「制限時間」なわけではまったくない。しかしやはり、その世界は「３日間」で終わるべく（プレイヤーも含めた）ヒトもモノも進行していくのだ。しかも、何度も（！）。つまりこのあたりがこの世界の、つまりこのゲームの最大の魅力なんであって、こんなところでバラしちゃうと怒られちゃうのかもしれないけど（お面屋のオッサンあたりに）。</p>
				
				<p>■たとえば「マリオ」のような、純粋なアクションゲームであれば、「３日間で月が落ちてくる」となればそれは間違いなく「制限時間」という「ゲームを構成するルール」になっていることだろう。それがルールである、ということは、期限になれば確実にゲームオーバーになるということだけど、逆に言えば、その制限時間内であれば（つまりルールに抵触しなければ）、プレイヤーはどこにどのように時間を使っても（使わなくても）、かまわないことになっている。ゲームの「世界」というのは、多くの場合そういうプレイヤーにとって「自由な」ものだったはずだ（つまりこれが「アクションゲームの世界観」である）。しかし、新しい「ゼルダ」にあるような、僕がここで説明しようとしている「時間」は、上に書いたような意味での「ルール」ではない。それはプレイヤーのために用意されるのではなく、あくまで「世界」のために用意されるシステムである。したがってプレイヤーはその「時間」そのものには何も可能にされず、また何も制限されないのだけど、実際にプレイヤーがその「世界」をプレイするためには、常にその「時間」に関わらなければならないのだった。こういう、プレイヤーからあえていえば、「不自由」で「不条理」なシステムが、ゲームにおける「時間」だ。</p>
				
				<p>■本来ゲームというものがルールに従った「アクション」のみによってプレイを進行させるものだとすると、ルールとは別の、「アクション」ともほぼ無関係の要素として、プレイヤーにある意味先んじてプレイが進行させようとする「時間」というものをどう考えればよいのか、というと、こんな風に考えられると僕は思う。つまり、&#8221;プレイヤーにとってゲームの「時間」とは、そのゲームの「世界」をプレイするための、「アクション」とは別のインターフェイスなのだ。&#8221;「アクション」が「プレイヤーに可能なこと」によってゲームの「世界」をプレイするインターフェイスだとすると、「時間」は、「プレイヤーに不可能なこと」を通じてゲームの「世界」をプレイするインターフェイスだと言える。「『プレイヤーに不可能なこと』を通じてゲームの『世界』をプレイする」というのはかなり奇妙な考えかたなんだけど、つまりそこに「時間」が介在することで、プレイヤーはその「世界」で「何かをする」ことではもちろん、「何もしない」ことでも、その「世界」が変わっていくのを見ることができるわけだ。「何もしない」ことで世界に触れるインターフェイス。その世界を「時間」を通じて見ることによって、プレイヤーは「その世界で自分に何ができて、何ができないか」を正確に知ることになるだろう。</p>
				
				<p>■だからもう一度言うけど、「ゼルダの伝説　ムジュラの仮面」というゲームでプレイヤーがプレイするのは、「残された時間が３日間になった世界と時間を共にする」ゲームである。もちろん多くのリンクはその世界を救うことになるのだろうけど、でもそれもやっぱり「残された時間が３日間となった世界と時間を共にする」方法の一つに過ぎない、と言わなければならないのだった。</p>
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		</item>
		<item>
		<title>think-routine #21　時間管理される物語について</title>
		<link>http://collisions.doppac.cc/archives/13</link>
		<comments>http://collisions.doppac.cc/archives/13#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 08 Jun 2000 15:00:44 +0000</pubDate>
		<dc:creator>dotimpact</dc:creator>
				<category><![CDATA[text]]></category>
		<category><![CDATA[think-routine]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://collisions.doppac.cc/archives/13</guid>
		<description><![CDATA[featuring 「Air」 初出：2000-06-09 &#8211; http://para.tutics.tut.ac.jp/~kotaro/Dotimpact/think_21.html ■「Kanon」の次はやっぱりこれだろうか、ということで、続いて今度は「AIR」をZaurusにインストールして（ちなみに「Air」をコンバータでわっふるのデータファイルに変換すると音楽なしで42MBくらいになり、CFメモリ(64M)の実に3/2あまりを占有します）、寝る前ふとんに入ってからとか、ミスタードーナツでドーナツを食べながらとか、バスの中でとか、ほとんど本と変わらないかっこうでちくちくとプレイして終わらせたのだった。いや、こういう読むゲームをこういうふうにプレイするのってかなり気持ちがいいというか、むしろ前面的に正しいような気がする。 ■そして「Kanon」の時は「まあ、泣いてもいいよ、とは思ったよ」とかかろうじてウソブいてもいられた僕も、「AIR」にはかなりほろっというか、じぃんというか、まあその、したのだった（美凪シナリオあたりで）。とはいうものの、やっぱりエモーションエンジンがボロいので涙を流すまで極まりはしなかったし、それにしてもこれはいったい何なんだろう、なんてことも思わないではない…なんて負け惜しみめいたうわごとを言いはじめるとしても、それは僕の往生際の悪さを単に示しているといってしまってかまわないだろう。 ■さてさて。それにしてもこれはいったい何なんだろう、と思うのだった。べつにそれは「AIR」にかぎった話ではぜんぜんないんだけれど、そこにあるのはたしかに感動的な物語ではありながら、いわゆる「感動的な物語」にしては、けっこうヘンなカタチのモノになってるんじゃないだろうか、と僕は思っている。そしてその「ヘンなカタチのモノ」を通じて、あるいは「感動」にいたる手続きを、もしかしたら「ゲーム」と呼べるんじゃないかな、なんてことを僕は考えるのだ。 ■前作「Kanon」にしても本作「AIR」にしても、舞台こそ現代であるものの、そこに綴られるエピソードはほぼわれわれの知っているものとは別の世界として扱われるファンタジーになっていて、さらにいうと「幽閉された無垢なるものを解き放つ」というような象徴的なプロットを伝えるべく書かれたメルヘンといってもさしつかえないものだろう（もちろんコンピュータゲームで綴られるストーリーの大部分はそういうものではあるんだけど）。きちんと評を追っていないから例を引くことができないけど、じっさいにこれらの作品が雑誌の紹介において「現代のおとぎ話」と評されたこともあったはずだ（ゲーム批評だったかな）。そう、たぶんまちがいなく「Kanon」や「AIR」は「現代のおとぎ話」といえるものなんだけど、その「おとぎ話」は、「7月17日から7月31日までの14日間の毎日」というようなものとして描かれるのである。僕が「ヘンなカタチのモノ」だと思うのはこのあたりだ。 ■例によって僕の当て推量によるものだけど、ふつうおとぎ話であるとか夢をその代表とするある種の幻想性というものは、一つのおおきな特徴としてその時間感覚の希薄さを挙げられるはずで、逆にいうと物語に「時間」を設定することはそれを現実に重ねることで地に足のついたリアリティを与える、という一般的な「おとぎ話」とは正反対の原則に従うことなんではないんだろうか。「Kanon」とか「AIR」とかががおとぎ話だとかそういったある種の幻想性にあるべき法則について単に無頓着なのかというと必ずしもそういうわけでもなくて、その物語からはたんねんに固有名詞が避けられていたりして（現実を根拠としない物語の特徴だ）、ほぼその法則にしたがっているように思える。その「おとぎ話」然とした物語に設定された、奇妙なほど厳密な「日付」は、たぶん「おとぎ話」とは別の法則が必要としているのだろうと、僕は考える。 ■加えてこれは「ToHeart」について書こうとしたときの繰り返しになるけれど、「Kanon」とか「AIR」がたとえばノベライズなり漫画化なりアニメ化なりされるとして（それにしてもノベルゲームのノベライズというのはおかしなものですネ）、それが本編のように「毎日の軌跡」として書かれる可能性はほぼないだろうと僕は思うのだ。もちろん本編と似たようなものを作ってもしかたないといった事情もあることだろうけど、それ以上に、「本編の形式をそのままなぞっても、それが表現として成功するとはとても信じられない」ところがある。たとえば「Kanon」では、プレイヤーが読み進めることになる日々の描写に、「名雪の声がサンプリングされた目覚まし時計で主人公が目覚め、その目覚ましを止め、部屋を出て名雪を起こし、１階に下りて、朝食を食べ、遅刻ぎりぎりの時間に家を出て、学校に急ぐ道すがら出会う友人に朝のあいさつをして、学校の門にすべりこむ」という一連の手続きが原則的には毎日挿入される。「なぜそんなことが可能なんだ」と思うくらいだ。じっさいにはすこし安心することに、「Kanon」や「AIR」の物語そのものも、展開が佳境に入るとその手続きをスキップしがちになっていく。しかしそれでも、その物語において「日付」は間違いなく一日づつしか経過しないのである。まるで、それが「ルール」であるかのように。 ■おそらくそういうことだろうと、僕は考えるのだ。つまり、&#8221;「Kanon」や「AIR」における「日付」は、物語とは別に進行する“システム”なんである。&#8221;そして、この“システム”に従ってプレイヤーが物語を読み進むことは、その意味においてその物語を「プレイ」することになる。逆にいうとその限りにおいて、いかなる物語の要請があろうとも、その“システム”を恣意的に調整することはできないのだ。このような原則に従う“システム”を通じて読まれた「Kanon」や「AIR」の物語は、たぶん一般的な意味での「おとぎ話」ではない。「14日間の経過を根拠として実在する世界」になっているはずだ。 ■いわゆる「ノベルゲーム」のようなものを「システムを外装する物語」というふうに考えることができるんじゃないかと、僕は考えている。そこでいう“システム”は「選択肢」によって展開する可能世界なのかもしれないし、あるいはそれだけでもないのかもしれない。なんにせよその「システムを外装する」という極めてコンピュータゲーム的な発想において、「ノベルゲーム」を肯定してしまってもいいんじゃないかと僕なんかは思うのだった。 注釈とか余談 美凪 「AIR」に登場するキャラクター。天文部。お米券。「残念…」。「ぽっ」。「飛べない翼に、意味はあるんでしょうか？」。 7月17日から7月31日までの14日間の毎日 「AIR」美鈴シナリオ（AIR編を除く）の場合、ですね。 名雪 「Kanon」のヒロイン。幼なじみ。イチゴサンデー。「わっ」。「くー」。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				<ul>
				<li>featuring 「Air」</li>
				</ul>
				
				<p>初出：<a href="http://web.archive.org/web/*/http://para.tutics.tut.ac.jp/~kotaro/Dotimpact/think_21.html">2000-06-09 &#8211; http://para.tutics.tut.ac.jp/~kotaro/Dotimpact/think_21.html</a></p>
				
				<p><span id="more-13"></span></p>
				
				<hr />
				
				<p>■「Kanon」の次はやっぱりこれだろうか、ということで、続いて今度は「AIR」をZaurusにインストールして（ちなみに「Air」をコンバータでわっふるのデータファイルに変換すると音楽なしで42MBくらいになり、CFメモリ(64M)の実に3/2あまりを占有します）、寝る前ふとんに入ってからとか、ミスタードーナツでドーナツを食べながらとか、バスの中でとか、ほとんど本と変わらないかっこうでちくちくとプレイして終わらせたのだった。いや、こういう読むゲームをこういうふうにプレイするのってかなり気持ちがいいというか、むしろ前面的に正しいような気がする。</p>
				
				<p>■そして「Kanon」の時は「まあ、泣いてもいいよ、とは思ったよ」とかかろうじてウソブいてもいられた僕も、「AIR」にはかなりほろっというか、じぃんというか、まあその、したのだった（美凪シナリオあたりで）。とはいうものの、やっぱりエモーションエンジンがボロいので涙を流すまで極まりはしなかったし、それにしてもこれはいったい何なんだろう、なんてことも思わないではない…なんて負け惜しみめいたうわごとを言いはじめるとしても、それは僕の往生際の悪さを単に示しているといってしまってかまわないだろう。</p>
				
				<p>■さてさて。それにしてもこれはいったい何なんだろう、と思うのだった。べつにそれは「AIR」にかぎった話ではぜんぜんないんだけれど、そこにあるのはたしかに感動的な物語ではありながら、いわゆる「感動的な物語」にしては、けっこうヘンなカタチのモノになってるんじゃないだろうか、と僕は思っている。そしてその「ヘンなカタチのモノ」を通じて、あるいは「感動」にいたる手続きを、もしかしたら「ゲーム」と呼べるんじゃないかな、なんてことを僕は考えるのだ。</p>
				
				<p>■前作「Kanon」にしても本作「AIR」にしても、舞台こそ現代であるものの、そこに綴られるエピソードはほぼわれわれの知っているものとは別の世界として扱われるファンタジーになっていて、さらにいうと「幽閉された無垢なるものを解き放つ」というような象徴的なプロットを伝えるべく書かれたメルヘンといってもさしつかえないものだろう（もちろんコンピュータゲームで綴られるストーリーの大部分はそういうものではあるんだけど）。きちんと評を追っていないから例を引くことができないけど、じっさいにこれらの作品が雑誌の紹介において「現代のおとぎ話」と評されたこともあったはずだ（ゲーム批評だったかな）。そう、たぶんまちがいなく「Kanon」や「AIR」は「現代のおとぎ話」といえるものなんだけど、その「おとぎ話」は、「7月17日から7月31日までの14日間の毎日」というようなものとして描かれるのである。僕が「ヘンなカタチのモノ」だと思うのはこのあたりだ。</p>
				
				<p>■例によって僕の当て推量によるものだけど、ふつうおとぎ話であるとか夢をその代表とするある種の幻想性というものは、一つのおおきな特徴としてその時間感覚の希薄さを挙げられるはずで、逆にいうと物語に「時間」を設定することはそれを現実に重ねることで地に足のついたリアリティを与える、という一般的な「おとぎ話」とは正反対の原則に従うことなんではないんだろうか。「Kanon」とか「AIR」とかががおとぎ話だとかそういったある種の幻想性にあるべき法則について単に無頓着なのかというと必ずしもそういうわけでもなくて、その物語からはたんねんに固有名詞が避けられていたりして（現実を根拠としない物語の特徴だ）、ほぼその法則にしたがっているように思える。その「おとぎ話」然とした物語に設定された、奇妙なほど厳密な「日付」は、たぶん「おとぎ話」とは別の法則が必要としているのだろうと、僕は考える。</p>
				
				<p>■加えてこれは「ToHeart」について書こうとしたときの繰り返しになるけれど、「Kanon」とか「AIR」がたとえばノベライズなり漫画化なりアニメ化なりされるとして（それにしてもノベルゲームのノベライズというのはおかしなものですネ）、それが本編のように「毎日の軌跡」として書かれる可能性はほぼないだろうと僕は思うのだ。もちろん本編と似たようなものを作ってもしかたないといった事情もあることだろうけど、それ以上に、「本編の形式をそのままなぞっても、それが表現として成功するとはとても信じられない」ところがある。たとえば「Kanon」では、プレイヤーが読み進めることになる日々の描写に、「名雪の声がサンプリングされた目覚まし時計で主人公が目覚め、その目覚ましを止め、部屋を出て名雪を起こし、１階に下りて、朝食を食べ、遅刻ぎりぎりの時間に家を出て、学校に急ぐ道すがら出会う友人に朝のあいさつをして、学校の門にすべりこむ」という一連の手続きが原則的には毎日挿入される。「なぜそんなことが可能なんだ」と思うくらいだ。じっさいにはすこし安心することに、「Kanon」や「AIR」の物語そのものも、展開が佳境に入るとその手続きをスキップしがちになっていく。しかしそれでも、その物語において「日付」は間違いなく一日づつしか経過しないのである。まるで、それが「ルール」であるかのように。</p>
				
				<p>■おそらくそういうことだろうと、僕は考えるのだ。つまり、&#8221;「Kanon」や「AIR」における「日付」は、物語とは別に進行する“システム”なんである。&#8221;そして、この“システム”に従ってプレイヤーが物語を読み進むことは、その意味においてその物語を「プレイ」することになる。逆にいうとその限りにおいて、いかなる物語の要請があろうとも、その“システム”を恣意的に調整することはできないのだ。このような原則に従う“システム”を通じて読まれた「Kanon」や「AIR」の物語は、たぶん一般的な意味での「おとぎ話」ではない。「14日間の経過を根拠として実在する世界」になっているはずだ。</p>
				
				<p>■いわゆる「ノベルゲーム」のようなものを「システムを外装する物語」というふうに考えることができるんじゃないかと、僕は考えている。そこでいう“システム”は「選択肢」によって展開する可能世界なのかもしれないし、あるいはそれだけでもないのかもしれない。なんにせよその「システムを外装する」という極めてコンピュータゲーム的な発想において、「ノベルゲーム」を肯定してしまってもいいんじゃないかと僕なんかは思うのだった。</p>
				
				<hr />
				
				<h2>注釈とか余談</h2>
				
				<ul>
				<li>美凪
				
				<ul>
				<li>「AIR」に登場するキャラクター。天文部。お米券。「残念…」。「ぽっ」。「飛べない翼に、意味はあるんでしょうか？」。</li>
				</ul></li>
				<li>7月17日から7月31日までの14日間の毎日
				
				<ul>
				<li>「AIR」美鈴シナリオ（AIR編を除く）の場合、ですね。</li>
				</ul></li>
				<li>名雪
				
				<ul>
				<li>「Kanon」のヒロイン。幼なじみ。イチゴサンデー。「わっ」。「くー」。</li>
				</ul></li>
				</ul>
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		<title>think-routine #15　キンダー・ブック</title>
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		<pubDate>Fri, 24 Mar 2000 15:00:21 +0000</pubDate>
		<dc:creator>dotimpact</dc:creator>
				<category><![CDATA[text]]></category>
		<category><![CDATA[think-routine]]></category>

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		<description><![CDATA[featuring 五味太郎・小野明「絵本をよんでみる」 初出：2000-03-25 &#8211; http://para.tutics.tut.ac.jp/~kotaro/Dotimpact/think_15.html 　　それから　からだを　かわかすと 　　とうさんが　うさこちゃんに　いいました。 　　「もっと　あそんでいたいけど 　　もう　かえらなくちゃ　ならないな」 このセリフ、完成度がすごく高い。このセリフのあと、絵本はあと一見開きしかない。ないことは、手でわかる。本を支えている手がすでに気づいている。(…）こういう感じ、実に絵本的だと思う。ああ、この絵本ももうすぐおしまいだ、という時に、 もう　かえらなくちゃ　ならないな うまいなあ、って思う。もうこの本も終わるんだよね。（…） &#8211; 五味太郎・小野明「絵本をほんでみる」(平凡社ライブラリー)より ■例によって思いつきなんだけど、絵本を読む小さな読者と、コンピュータゲームをプレイするプレイヤーというのは、どこかしら似ているのではないか、と思う。コンピュータゲームのプレイヤーというのは、なにかにつけ落ち着きがなくて、かと思えば興味を引くものに出会うと同じことを飽きるまで繰り返していることができるような、絵本の読者と同じくらい「真剣」な人たちのことなのじゃないか。そしてその意味で、絵本に求められるものとコンピュータゲームに求められるものを、もしかしたら同じように考えることができるのかもしれない。 ■というわけで、いきなりなにを引用したかというと、五味太郎・小野明「絵本をよんでみる」という本の一節。ご存知ディック・ブルーナの絵本「うさこちゃんとうみ」のおわりのあたりを、五味太郎氏が解説しているわけだけど、ここで五味太郎が言おうとしていることは、絵本の、コンピュータゲームでいわゆるところの「インタラクティヴ」なありかたについて説明しているように思うのだった。「インタラクティヴ」な「絵本」なんていうとどうも陳腐なものしか連想されなくていけないけど、もちろん僕がここでいいたいのは「読者がページをめくっていくんだから絵本もインタラクティヴなメディアだ」とかみたいな貧弱なアナロジーではない。「インタラクティヴ」というのは、たぶんそんな一義的なものじゃないのだ。 ■たとえば、絵本と呼ばれるもので一番「インタラクティヴ」なのは、その明示的なページ数の少なさじゃないかと思うのだ。絵本の読者は、そのおはなしが「どれくらい」なのかについて、あらかじめ知っている。五味太郎いわく「手が気付いている」。優れた絵本は、そういう「絵本の読者が知っていること」について知っていて、それを１ページづつ確認するようにおはなしを進めるのだと思う。そうでないと、絵本の読者のような「真剣」な人たちは、さっそく興味を失ってしまうんだろう。「あらかじめ知っていること」を、「ひとつづつ確認すること」。「インタラクティヴ」というのはこういうものだと僕は思う。 ■コンピュータゲームでもおそらく同じことなんではないか。幸か不幸かゲーム機はコントローラが標準装備なので、それを触ることが「インタラクティヴ」だという話になりがちだけど、たぶんそうじゃない。あるオブジェクトが操作可能であることが「インタラクティヴ」なのじゃなくて、そのオブジェクトに関する制限(そのオブジェクトによって何がどこからどこまで操作可能なのか)が明示的であることこそが「インタラクティヴ」なんじゃないか。たとえば僕の考えだと、どこまで回るかわからないダイヤルを回すことは、たとえ自分の操作だとしてもそれは「インタラクティヴ」じゃない。あらかじめどこまで回るか知っているダイヤルを回す(調節する)ことが「インタラクティヴ」なのだと考える。さらに言えば、それが「あらかじめどこまで回るか知っている」限り、それを「自分で回すこと」そのものはさほど重要ではないのかもしれない(この最後のはコンピュータゲームを否定する考えかたかもしれない)。 ■コンピュータゲームのプレイヤーは絵本の読者と同じくらい「真剣」なので、「インタラクティヴ」ではないゲームにはすぐに退屈してしまう(でもそれ以上にオトナだったりするので、もったいないので退屈でも一回クリアするまではプレイを続けたりもする)。当然ながらゲームが「インタラクティヴなメディア」なのではなく、優れた絵本がそうであるように優れたゲームが優れて「インタラクティヴ」であるに過ぎないということは、プレイヤーの「手が気付いている」はずなのだ。 注釈とか余談 五味太郎・小野明「絵本をよんでみる」 平凡社ライブラリー　1999年　ISBN4-582-76300-6　定価1,000円（税別） とてもおもしろい本なのでおすすめです。 貧弱なアナロジー ていうか、僕はこの手のアナロジーはほぼ全部勘違いだと思います。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				<ul>
				<li>featuring 五味太郎・小野明「絵本をよんでみる」</li>
				</ul>
				
				<p>初出：<a href="http://web.archive.org/web/*/http://para.tutics.tut.ac.jp/~kotaro/Dotimpact/think_15.html">2000-03-25 &#8211; http://para.tutics.tut.ac.jp/~kotaro/Dotimpact/think_15.html</a></p>
				
				<p><span id="more-23"></span></p>
				
				<hr />
				
				<blockquote>
				  <p>　　それから　からだを　かわかすと<br />
				  　　とうさんが　うさこちゃんに　いいました。<br />
				  　　「もっと　あそんでいたいけど<br />
				  　　もう　かえらなくちゃ　ならないな」  </p>
				  
				  <p>このセリフ、完成度がすごく高い。このセリフのあと、絵本はあと一見開きしかない。ないことは、手でわかる。本を支えている手がすでに気づいている。(…）こういう感じ、実に絵本的だと思う。ああ、この絵本ももうすぐおしまいだ、という時に、</p>
				  
				  <p>もう　かえらなくちゃ　ならないな</p>
				  
				  <p>うまいなあ、って思う。もうこの本も終わるんだよね。（…）
				  &#8211; 五味太郎・小野明「絵本をほんでみる」(平凡社ライブラリー)より</p>
				</blockquote>
				
				<p>■例によって思いつきなんだけど、絵本を読む小さな読者と、コンピュータゲームをプレイするプレイヤーというのは、どこかしら似ているのではないか、と思う。コンピュータゲームのプレイヤーというのは、なにかにつけ落ち着きがなくて、かと思えば興味を引くものに出会うと同じことを飽きるまで繰り返していることができるような、絵本の読者と同じくらい「真剣」な人たちのことなのじゃないか。そしてその意味で、絵本に求められるものとコンピュータゲームに求められるものを、もしかしたら同じように考えることができるのかもしれない。</p>
				
				<p>■というわけで、いきなりなにを引用したかというと、五味太郎・小野明「絵本をよんでみる」という本の一節。ご存知ディック・ブルーナの絵本「うさこちゃんとうみ」のおわりのあたりを、五味太郎氏が解説しているわけだけど、ここで五味太郎が言おうとしていることは、絵本の、コンピュータゲームでいわゆるところの「インタラクティヴ」なありかたについて説明しているように思うのだった。「インタラクティヴ」な「絵本」なんていうとどうも陳腐なものしか連想されなくていけないけど、もちろん僕がここでいいたいのは「読者がページをめくっていくんだから絵本もインタラクティヴなメディアだ」とかみたいな貧弱なアナロジーではない。「インタラクティヴ」というのは、たぶんそんな一義的なものじゃないのだ。</p>
				
				<p>■たとえば、絵本と呼ばれるもので一番「インタラクティヴ」なのは、その明示的なページ数の少なさじゃないかと思うのだ。絵本の読者は、そのおはなしが「どれくらい」なのかについて、あらかじめ知っている。五味太郎いわく「手が気付いている」。優れた絵本は、そういう「絵本の読者が知っていること」について知っていて、それを１ページづつ確認するようにおはなしを進めるのだと思う。そうでないと、絵本の読者のような「真剣」な人たちは、さっそく興味を失ってしまうんだろう。「あらかじめ知っていること」を、「ひとつづつ確認すること」。「インタラクティヴ」というのはこういうものだと僕は思う。</p>
				
				<p>■コンピュータゲームでもおそらく同じことなんではないか。幸か不幸かゲーム機はコントローラが標準装備なので、それを触ることが「インタラクティヴ」だという話になりがちだけど、たぶんそうじゃない。あるオブジェクトが操作可能であることが「インタラクティヴ」なのじゃなくて、そのオブジェクトに関する制限(そのオブジェクトによって何がどこからどこまで操作可能なのか)が明示的であることこそが「インタラクティヴ」なんじゃないか。たとえば僕の考えだと、どこまで回るかわからないダイヤルを回すことは、たとえ自分の操作だとしてもそれは「インタラクティヴ」じゃない。あらかじめどこまで回るか知っているダイヤルを回す(調節する)ことが「インタラクティヴ」なのだと考える。さらに言えば、それが「あらかじめどこまで回るか知っている」限り、それを「自分で回すこと」そのものはさほど重要ではないのかもしれない(この最後のはコンピュータゲームを否定する考えかたかもしれない)。</p>
				
				<p>■コンピュータゲームのプレイヤーは絵本の読者と同じくらい「真剣」なので、「インタラクティヴ」ではないゲームにはすぐに退屈してしまう(でもそれ以上にオトナだったりするので、もったいないので退屈でも一回クリアするまではプレイを続けたりもする)。当然ながらゲームが「インタラクティヴなメディア」なのではなく、優れた絵本がそうであるように優れたゲームが優れて「インタラクティヴ」であるに過ぎないということは、プレイヤーの「手が気付いている」はずなのだ。</p>
				
				<hr />
				
				<h2>注釈とか余談</h2>
				
				<ul>
				<li>五味太郎・小野明「絵本をよんでみる」
				
				<ul>
				<li>平凡社ライブラリー　1999年　ISBN4-582-76300-6　定価1,000円（税別）<br />
				とてもおもしろい本なのでおすすめです。</li>
				</ul></li>
				<li>貧弱なアナロジー
				
				<ul>
				<li>ていうか、僕はこの手のアナロジーはほぼ全部勘違いだと思います。</li>
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