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	<title>collisions.doppac.cc &#187; review</title>
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	<description>dotimpactの興味と関心の最新情報</description>
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		<title>梅田望夫「ウェブ進化論」</title>
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		<pubDate>Sat, 10 Jun 2006 15:00:15 +0000</pubDate>
		<dc:creator>dotimpact</dc:creator>
				<category><![CDATA[review]]></category>
		<category><![CDATA[text]]></category>

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		<description><![CDATA[				■梅田望夫「ウェブ進化論　本当の大変化はこれから始まる」を読んだ。当然ながら、基本的には知ってたりわかったつもりになっている話が書いてあったという感じだったんだけど、それでも十分わくわくしながら読めた。意味ありげな図とか表とかグラフの類はいっさいない（URLはあるけど。こういうのわざわざ入力して見ないよなー。どっかにリンク集ないんかしらん）。あくまでいま起きていることと、これから10年以内に起きるかもしれないことをそれぞれ読者に想像してもらおうということなんだろう。
				
				個人的におもしろかったのはこのあたり。
				
				
				  　私は、日本のメディア企業の幹部から公演を頼まれると必ず、（…）ウィキペディア日本版のそのメディア企業の項目に何が書かれているかを、幹部皆に見てもらう。（…）大概の質問は、誰が何の資格でこれを書いているのかということと、間違いも一部にあるから信用できないじゃないか、というところに落ち着く。そこで私は、幹部たちにどこが間違っているかを聞き、講演会場からリアルタイムでこの項目に修正を入れてしまう。
				
				
				なーるほど。
				
				■しかしこの本を読んでいてあらためて思ったのは、いまの状況で痛快なのは、よりによってgoogleなんて綴りも響きもいいかげんナメた名前の会社が、「IBM（International Business Machine）」とか「Microsoft」とかいったまがりなりにも通りのいい名前の巨大な会社を振り切って世界に君臨しつつあるってとこなんだよなー、と。したがって、「あちら側」の「本当の大変化」に備えてとりあえずわれわれは、googleよりもっとナメた社名を早急に考えていく必要がありそうだ。もうなんか、発音できないとか。コンピュータしか読めないとか。音がバンド名みたいな。あるいは社名がだれでも編集可能とか。
				
				それでいうとさすがなのは、「はてな」ってやっぱわりといい線いってるのであった。梅田望夫も言っている。
				
				
				  　二〇〇五年三月二八日に「（株）はてな」という変な名前の会社の取締役（非常勤）になった。
				
				
				変な名前なのである。「はてなは日本のグーグルである（社名のセンスが）」と言っても過言ではないのかもしれない。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				<p>■梅田望夫「<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480062858/dotimpact-22/ref=nosim/">ウェブ進化論　本当の大変化はこれから始まる</a>」を読んだ。当然ながら、基本的には知ってたりわかったつもりになっている話が書いてあったという感じだったんだけど、それでも十分わくわくしながら読めた。意味ありげな図とか表とかグラフの類はいっさいない（URLはあるけど。こういうのわざわざ入力して見ないよなー。どっかにリンク集ないんかしらん）。あくまでいま起きていることと、これから10年以内に起きるかもしれないことをそれぞれ読者に想像してもらおうということなんだろう。</p>
				
				<p>個人的におもしろかったのはこのあたり。</p>
				
				<blockquote>
				  <p>　私は、日本のメディア企業の幹部から公演を頼まれると必ず、（…）ウィキペディア日本版のそのメディア企業の項目に何が書かれているかを、幹部皆に見てもらう。（…）大概の質問は、誰が何の資格でこれを書いているのかということと、間違いも一部にあるから信用できないじゃないか、というところに落ち着く。そこで私は、幹部たちにどこが間違っているかを聞き、講演会場からリアルタイムでこの項目に修正を入れてしまう。</p>
				</blockquote>
				
				<p>なーるほど。</p>
				
				<p>■しかしこの本を読んでいてあらためて思ったのは、いまの状況で痛快なのは、よりによって<a href="http://www.google.com/">google</a>なんて綴りも響きもいいかげんナメた名前の会社が、「IBM（International Business Machine）」とか「Microsoft」とかいったまがりなりにも通りのいい名前の巨大な会社を振り切って世界に君臨しつつあるってとこなんだよなー、と。したがって、「あちら側」の「本当の大変化」に備えてとりあえずわれわれは、googleよりもっとナメた社名を早急に考えていく必要がありそうだ。もうなんか、発音できないとか。コンピュータしか読めないとか。<a href="http://www.geocities.jp/poloniumrecord/">音がバンド名</a>みたいな。あるいは社名がだれでも編集可能とか。</p>
				
				<p>それでいうとさすがなのは、「<a href="http://hatena.ne.jp/">はてな</a>」ってやっぱわりといい線いってるのであった。梅田望夫も言っている。</p>
				
				<blockquote>
				  <p>　二〇〇五年三月二八日に「（株）はてな」という変な名前の会社の取締役（非常勤）になった。</p>
				</blockquote>
				
				<p>変な名前なのである。「はてなは日本のグーグルである（社名のセンスが）」と言っても過言ではないのかもしれない。</p>
]]></content:encoded>
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		<title>別役実「犯罪症候群」</title>
		<link>http://collisions.doppac.cc/archives/63</link>
		<comments>http://collisions.doppac.cc/archives/63#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 23 Apr 2006 15:00:52 +0000</pubDate>
		<dc:creator>dotimpact</dc:creator>
				<category><![CDATA[review]]></category>
		<category><![CDATA[text]]></category>

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		<description><![CDATA[				
				犯罪症候群　ちくま学芸文庫
				
				
				別役 実 (著)
				
				
				
				■id：brazilさんが別役実「日々の暮らし方」を紹介されていて、いっかいの別役ファンとして僕もマイフェイバリットを紹介したくなったので、勝手にバトンを受け取ってみようと思った（バトン？）。
				
				
				
				文庫版も絶版してもう何年も書店で見かけないこの本だけど、このなかで提示される論理と世界観は、今読んでもまったく古びておらず、いまだに恐るべきものだ。この本を大学生のときに図書館で借りて読んだときの衝撃を僕はいまだにまざまざと覚えているし、id:brazilさんじゃないけど、それは僕が文章の上で論理を組み立てるときの、背骨になっていると感じる。
				
				タイトルの通り、犯罪について評した本だ。でもそれは、ふだんわれわれがニュースで知るたぐいの「情報としての犯罪」の話ではない。力としての人間関係や、力としての人間の行動論理が、たがいを圧迫しあい軋んだはてに、雪崩れるようにして起こる「ドラマとしての犯罪」が、この本では扱われている。そこには論理がある。アリバイがあるとか犯行が計画的だとかいうことではない。犯罪とはそんな属人的なものではない、とこの本は言う。人間の関係やその行動には、個人の意志とは無関係なロジックが埋め込まれており、犯罪なるものは、そのロジックを利用するかたちで、われわれの前にその姿をあらわすのだ。
				
				だからこの本は犯罪に興味がなくて読めるはずだし、扱われている事件が遠い過去の記述となった今もって、その内容は古びていない（というか、刊行の時点で別役実は、取り上げる事件を「神話」として扱っているように思える）。しかも別役実が書くわけだから、酩酊感をともなう独特のユーモアが全編に満ちている（他の本にくらべると若干含有量は少なめだけど）。最高にかっこいい本だ。ぜひ図書館で借りて読んでほしい。
				
				たとえば第2章「犯罪　− そのデザイン」の「詐欺師」の項。前も引用したけど、「アーキテクチャによる規制」とかweb2.0の世界観というのは、ようするにこういうことなんじゃないかと僕はずーっと思っている。絶版本だし安心して長々と引用したい。
				
				
				  　一人の帽子売りが、大きな木の下に荷を置いて休んでいる。一匹の猿が、帽子売りの帽子を取って木へ逃げる。帽子売りは先ず木に登って猿を捕まえ、帽子を取り戻そうと考える。しかしもちろん、そんなことはしない。木登りの技術で猿に対抗できるとは思えないからだ。次に帽子売りは、石を投げることで猿を脅迫し、それによって帽子を捨てさせようと考える。もちろんこれも実行はしない。石は当たらないだろうし、万が一当たっても、帽子を捨てるかどうかわからない。
				  　そこで帽子売りはしばらく考え、試してみる価値のあるひとつの方法を思いつく。商品の帽子をひとつ取り、それを自分の頭に乗せてみるのである。木の上の猿も、なるほど帽子とはそうするものかと考えて、帽子を頭に乗せてみる。次に帽子屋はそれを脱いで地面に思い切り叩きつける。帽子をそのように取り扱うやり方もないとは言えない。もちろん、木の上の猿も、そうしてみる。そうしなければいけないものかもしれないからだ。
				  　つまりこのようにして、帽子屋はその帽子を無事取り戻すことができた。この場合、帽子はもともと帽子屋の所有するものであるから、彼の行為はいかなる法にも抵触するものではないが、もしこの帽子が、もともと猿の所有するものであるとしたら、そのとき彼の行為は《詐欺》ということにある。言ってみればこの猿は、「自分ではまったくその気がないにもかかわらず」「自分の意志で」帽子屋に帽子を渡してしまっているからであり、《詐欺》が成立するためのもっとも特徴的な条件は、まさしくここにあるからである。
				  　（…）木に登って猿をつかまえ、帽子を奪い取ろうとするのは窃盗の方法である。石を投げて猿を脅迫し、それによって帽子を捨てさせようというのは強盗の方法である。そして我々は、それからこれへの進歩を促したものが、「より労を少なく」「より横着に」という法則であることに、直ちに気づくことができる。（…）
				  　従って《詐欺》の方法は、強盗から更に、脅迫する労力を惜しんで発明されたやり方であると言えるだろう。言ってみれば、もっとも横着な手段であり、他人の財物をかすめとるための、この過程におけるもっとも進歩した、言ってみれば、ほぼ完全な手段であると言ってもいいかもしれない。被害者が「自分では全くその気がないにもかかわらず」「自分の意志で」、加害者にその財物を渡さざるを得ない方法というのは、古来よりすべての犯罪者が夢見てきたものであった。つまりそれが、ここに完成をしたのである。
				
				
				同じく第2章の「愉快犯」に関する考察も震えるほど素晴らしい。
				
				
				  　私の観察によれば、《愉快犯》というのは、怨恨もしくは報復の対象を、特定できない人間のことではなく、むしろ、特定する必要を認めない人間のことなのである。つまり、彼の怨恨もしくは報復の衝動は、その対象に置き換えて相殺できるという種類のものではないのだ。（…）
				  　従って彼等は、刃物を持って表に飛出してゆき、特定の、もしくは不特定の人々をそれで刺し、そうすることによって内在する怨恨もしくは報復の衝動を解消させようなどとは考えない。彼等はそれを解消させることにあらかじめ絶望している。ただ彼等は、それがそこにあることを、時々確かめてみたいと考えている。それがそこにあることを確かめることのみが、彼等にとっての、唯一のなぐさめなのである。（…）
				  　どんな人間が《愉快犯》になるか、という点について社会心理学者が、ひとつの類型をこしらえあげている。それによると「内気で大人しい」「無口である」「友だちが余りいない」「礼儀正しい」「ひとりでこつこつやるのが好き」「臆病である」「平凡で目立たない」「成績が中の上」など、特殊なものをの除くと、ほとんど取るに足らない。良く考えてみると、これらは全て従来の概念に従えば、犯罪者にならないものの特質としか思えない。
				   
				  　つまり、《愉快犯》というのは、特異な個性が生み出す特異な犯罪なのではなく、最も平凡な個性が、得体の知れない事情に促されて起す奇妙な犯罪なのである。
				
				
				あるいは第4章「犯罪　ー　そのたましい」。この章では「裏切り」というものが、共同体のドラマにおけるいかなる画期的な“発明”であるかが、各時代の事件とともに評されているのだけど、ここで別役実は、イスカリオテのユダや北一輝にならび、昭和四十三年に起きた取るに足らない一家心中未遂の犯人川瀬申重を取り上げる。この川瀬に対する別役実の思い入れは、ほんとうにすさまじい。きわめて平凡な４人家族の会社員が、とある目論見外れで手に入れる予定だった家の資金調達に失敗しつつあった過程を、別役実はこう書く。
				
				
				  　もちろん、こうした男はよく居る。最初に何かでつまずくと、それですべて気力を失ってしまって、何も彼もいやになるのである。ただし、ここが重要なところだと考えるのだが、川瀬はそこで破滅はしなかった。ヤケにもならなかったし、ひどく落胆することもなかった。（…）一人で黙々と、耐えたのである。何故それに耐えられたのであろうか。私はここに、川瀬にとってのたましいの秘密があると考えるのである。
				   
				  　最初に川瀬が、姉に借金を断られた時、すぐにすべてをあきらめたとは考えられない。兄のところへ、もしくは銀行へ行って、姉に断られた分も頼みこもうと考えたに違いない。しかし、それは重苦しい仕事だった。そこで一日延ばしに、延ばしていったのだ。「明日は行こう、明日は行こう」と考えながら一日一日と延ばしてゆくその日々の、ギリギリする緊張感は、大変なものだったろうと思う。そうした連続の中で、川瀬はたましい（引用者：強調部は本文では傍点）の奇妙なすれ違いを体験する。「兄のところへ交渉に出掛けていく強さ」を自らに課すのでなく、「行かなければならないと考えながらおくる不安な日々に耐える強さ」を自らに課すことを始めていたのだ。たましいの奇妙な転換がここで行われたのである。人はこのようにして、「わかりません」一派の人間に生まれかわる。
				   
				  　（…）恐らく川瀬は彼のたましいに、手付の三十万が失われ、家族の、会社の、その他すべてからの信用が失われてゆく事実を、刻々と刻みつけながら、それまでに味わったことのない「楽しみ」を、体験したであろうと、私は信ずる。
				
				
				裏切りとそのための倒錯とを、これほど耽美に、おそれることなく書いた文章というものを、僕はほかに知らない。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				<ul>
				<li><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/448008018X/">犯罪症候群　ちくま学芸文庫</a>
				
				<ul>
				<li>別役 実 (著)</li>
				</ul></li>
				</ul>
				
				<p>■<a href="http://d.hatena.ne.jp/brazil/">id：brazil</a>さんが<a href="http://d.hatena.ne.jp/brazil/20060418/1145349428">別役実「日々の暮らし方」を紹介</a>されていて、いっかいの別役ファンとして僕もマイフェイバリットを紹介したくなったので、勝手にバトンを受け取ってみようと思った（バトン？）。</p>
				
				<p><span id="more-63"></span></p>
				
				<p>文庫版も絶版してもう何年も書店で見かけないこの本だけど、このなかで提示される論理と世界観は、今読んでもまったく古びておらず、いまだに恐るべきものだ。この本を大学生のときに図書館で借りて読んだときの衝撃を僕はいまだにまざまざと覚えているし、id:brazilさんじゃないけど、それは僕が文章の上で論理を組み立てるときの、背骨になっていると感じる。</p>
				
				<p>タイトルの通り、犯罪について評した本だ。でもそれは、ふだんわれわれがニュースで知るたぐいの「情報としての犯罪」の話ではない。力としての人間関係や、力としての人間の行動論理が、たがいを圧迫しあい軋んだはてに、雪崩れるようにして起こる「ドラマとしての犯罪」が、この本では扱われている。そこには論理がある。アリバイがあるとか犯行が計画的だとかいうことではない。犯罪とはそんな属人的なものではない、とこの本は言う。人間の関係やその行動には、個人の意志とは無関係なロジックが埋め込まれており、犯罪なるものは、そのロジックを利用するかたちで、われわれの前にその姿をあらわすのだ。</p>
				
				<p>だからこの本は犯罪に興味がなくて読めるはずだし、扱われている事件が遠い過去の記述となった今もって、その内容は古びていない（というか、刊行の時点で別役実は、取り上げる事件を「神話」として扱っているように思える）。しかも別役実が書くわけだから、酩酊感をともなう独特のユーモアが全編に満ちている（他の本にくらべると若干含有量は少なめだけど）。最高にかっこいい本だ。ぜひ図書館で借りて読んでほしい。</p>
				
				<p>たとえば第2章「犯罪　− そのデザイン」の「詐欺師」の項。<a href="http://realtimemachine.sakura.ne.jp/collisions/text/think-routine/think_22.html">前も引用した</a>けど、「アーキテクチャによる規制」とかweb2.0の世界観というのは、ようするにこういうことなんじゃないかと僕はずーっと思っている。絶版本だし安心して長々と引用したい。</p>
				
				<blockquote>
				  <p>　一人の帽子売りが、大きな木の下に荷を置いて休んでいる。一匹の猿が、帽子売りの帽子を取って木へ逃げる。帽子売りは先ず木に登って猿を捕まえ、帽子を取り戻そうと考える。しかしもちろん、そんなことはしない。木登りの技術で猿に対抗できるとは思えないからだ。次に帽子売りは、石を投げることで猿を脅迫し、それによって帽子を捨てさせようと考える。もちろんこれも実行はしない。石は当たらないだろうし、万が一当たっても、帽子を捨てるかどうかわからない。<br />
				  　そこで帽子売りはしばらく考え、試してみる価値のあるひとつの方法を思いつく。商品の帽子をひとつ取り、それを自分の頭に乗せてみるのである。木の上の猿も、なるほど帽子とはそうするものかと考えて、帽子を頭に乗せてみる。次に帽子屋はそれを脱いで地面に思い切り叩きつける。帽子をそのように取り扱うやり方もないとは言えない。もちろん、木の上の猿も、そうしてみる。そうしなければいけないものかもしれないからだ。<br />
				  　つまりこのようにして、帽子屋はその帽子を無事取り戻すことができた。この場合、帽子はもともと帽子屋の所有するものであるから、彼の行為はいかなる法にも抵触するものではないが、もしこの帽子が、もともと猿の所有するものであるとしたら、そのとき彼の行為は《詐欺》ということにある。言ってみればこの猿は、「自分ではまったくその気がないにもかかわらず」「自分の意志で」帽子屋に帽子を渡してしまっているからであり、《詐欺》が成立するためのもっとも特徴的な条件は、まさしくここにあるからである。<br />
				  　（…）木に登って猿をつかまえ、帽子を奪い取ろうとするのは窃盗の方法である。石を投げて猿を脅迫し、それによって帽子を捨てさせようというのは強盗の方法である。そして我々は、それからこれへの進歩を促したものが、「より労を少なく」「より横着に」という法則であることに、直ちに気づくことができる。（…）<br />
				  　従って《詐欺》の方法は、強盗から更に、脅迫する労力を惜しんで発明されたやり方であると言えるだろう。言ってみれば、もっとも横着な手段であり、他人の財物をかすめとるための、この過程におけるもっとも進歩した、言ってみれば、ほぼ完全な手段であると言ってもいいかもしれない。被害者が「自分では全くその気がないにもかかわらず」「自分の意志で」、加害者にその財物を渡さざるを得ない方法というのは、古来よりすべての犯罪者が夢見てきたものであった。つまりそれが、ここに完成をしたのである。</p>
				</blockquote>
				
				<p>同じく第2章の「愉快犯」に関する考察も震えるほど素晴らしい。</p>
				
				<blockquote>
				  <p>　私の観察によれば、《愉快犯》というのは、怨恨もしくは報復の対象を、特定できない人間のことではなく、むしろ、特定する必要を認めない人間のことなのである。つまり、彼の怨恨もしくは報復の衝動は、その対象に置き換えて相殺できるという種類のものではないのだ。（…）<br />
				  　従って彼等は、刃物を持って表に飛出してゆき、特定の、もしくは不特定の人々をそれで刺し、そうすることによって内在する怨恨もしくは報復の衝動を解消させようなどとは考えない。彼等はそれを解消させることにあらかじめ絶望している。ただ彼等は、それがそこにあることを、時々確かめてみたいと考えている。それがそこにあることを確かめることのみが、彼等にとっての、唯一のなぐさめなのである。（…）<br />
				  　どんな人間が《愉快犯》になるか、という点について社会心理学者が、ひとつの類型をこしらえあげている。それによると「内気で大人しい」「無口である」「友だちが余りいない」「礼儀正しい」「ひとりでこつこつやるのが好き」「臆病である」「平凡で目立たない」「成績が中の上」など、特殊なものをの除くと、ほとんど取るに足らない。良く考えてみると、これらは全て従来の概念に従えば、犯罪者にならないものの特質としか思えない。<br />
				   
				  　つまり、《愉快犯》というのは、特異な個性が生み出す特異な犯罪なのではなく、最も平凡な個性が、得体の知れない事情に促されて起す奇妙な犯罪なのである。</p>
				</blockquote>
				
				<p>あるいは第4章「犯罪　ー　そのたましい」。この章では「裏切り」というものが、共同体のドラマにおけるいかなる画期的な“発明”であるかが、各時代の事件とともに評されているのだけど、ここで別役実は、イスカリオテのユダや北一輝にならび、昭和四十三年に起きた取るに足らない一家心中未遂の犯人川瀬申重を取り上げる。この川瀬に対する別役実の思い入れは、ほんとうにすさまじい。きわめて平凡な４人家族の会社員が、とある目論見外れで手に入れる予定だった家の資金調達に失敗しつつあった過程を、別役実はこう書く。</p>
				
				<blockquote>
				  <p>　もちろん、こうした男はよく居る。最初に何かでつまずくと、それですべて気力を失ってしまって、何も彼もいやになるのである。ただし、ここが重要なところだと考えるのだが、川瀬はそこで破滅はしなかった。ヤケにもならなかったし、ひどく落胆することもなかった。（…）一人で黙々と、耐えたのである。何故それに耐えられたのであろうか。私はここに、川瀬にとってのたましいの秘密があると考えるのである。<br />
				   
				  　最初に川瀬が、姉に借金を断られた時、すぐにすべてをあきらめたとは考えられない。兄のところへ、もしくは銀行へ行って、姉に断られた分も頼みこもうと考えたに違いない。しかし、それは重苦しい仕事だった。そこで一日延ばしに、延ばしていったのだ。「明日は行こう、明日は行こう」と考えながら一日一日と延ばしてゆくその日々の、ギリギリする緊張感は、大変なものだったろうと思う。そうした連続の中で、川瀬は<em>たましい</em>（引用者：強調部は本文では傍点）の奇妙なすれ違いを体験する。「兄のところへ交渉に出掛けていく<em>強さ</em>」を自らに課すのでなく、「行かなければならないと考えながらおくる不安な日々に耐える強さ」を自らに課すことを始めていたのだ。<em>たましい</em>の奇妙な転換がここで行われたのである。人はこのようにして、「わかりません」一派の人間に生まれかわる。<br />
				   
				  　（…）恐らく川瀬は彼の<em>たましい</em>に、手付の三十万が失われ、家族の、会社の、その他すべてからの信用が失われてゆく事実を、刻々と刻みつけながら、それまでに味わったことのない「楽しみ」を、体験したであろうと、私は信ずる。</p>
				</blockquote>
				
				<p>裏切りとそのための倒錯とを、これほど耽美に、おそれることなく書いた文章というものを、僕はほかに知らない。</p>
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		<title>柴田元幸『翻訳教室』</title>
		<link>http://collisions.doppac.cc/archives/65</link>
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		<pubDate>Thu, 06 Apr 2006 15:00:50 +0000</pubDate>
		<dc:creator>dotimpact</dc:creator>
				<category><![CDATA[review]]></category>
		<category><![CDATA[text]]></category>

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		<description><![CDATA[				■柴田元幸『翻訳教室』が大変におもしろい。
				
				これ、日本語タイトルは『翻訳教室』といたってシンプルになっているけれど、表紙にある英文タイトルでは「Lectures on Literary Translation from English to Japanese」となっていて、内容は東大文学部での翻訳演習の講義内容を収録したもの。柴田元幸氏といえば東大教授にしてアメリカ現代文学の名翻訳家として絶大な影響力を持ち、またいっぽう弱腰な自身のパーソナリティを「弱腰だけには自信がある」とばかりに語る名エッセイでも知られる人物だけど、その柴田さん（あんまり「柴田先生」って感じじゃないのね）が学生といっしょに、現代作家の英語の文章を、その味わいをできるかぎり残しながらどんな日本語に訳したらいいかについて、ああでもないこうでもないと知恵を絞る模様をそのまま収録しているのがこの本だ。
				
				僕もまだ全部読み切ってはないんだけど、とにかく刺激的。糸井重里『糸井重里の萬流コピー塾』とか枡野浩一『かんたん短歌の作り方』みたいな、お題に対する解答を達人が添削する、という本としても読めるし、すべてのレッスンについて原文と学生による試訳とその細部に関する議論、議論で添削された学生訳、さらに柴田さんの模範訳がそれぞれ載っていて、いろんな読みかたができたり勉強になったりして楽しいというのもある。でもそれよりやはりしびれるのは、柴田さんと学生の対話のなかで、作品としての英文に語られる「イメージ」というものが「きわめて厳密なもの」として扱われ、その厳密さを可能なかぎり同じ解像度の日本語に翻訳することに、どうにも不思議なほどの情熱が注がれている部分じゃないだろうか。僕なんかが読むとそれは、いわゆる文学への情熱というよりはもうちょっと自動的な、コードオプティマイズやスペックの大幅に違うハード間のプログラムコンバート（いわゆる「移植」！）へのハッカーやギークのむやみな情熱に、むしろ近しいように感じる。
				
				ちなみに、村上春樹氏をゲスト講師に招いた講義も収録されていて、そのなかで村上氏がなぜかいきなりウェブ進化論を語っていたのでせっかくだし引用。
				
				
				  柴田　読者の声は聞かれますか？
				  村上　インターネットでウェブサイトをやっていたときには全部読みました。僕がそのときに思ったのは、一つひとつの意見は、あるいはまちがっているのかもしれないし、偏見に満ちているのかもしれないけど、全部まとまると正しいんだなと。僕が批評家の批評を読まないのはそのせいだと思う。（…）
				  村上　たとえばウェブサイトに批評家がメール送ってきたとしますよね。そうするとそこにメールが2000あったら2000分の1ですよね。よく書けている評論かもしれないけど2000分の1。僕がとらえるのもそういうことです。
				  柴田　たとえばそれが、新聞の書評なんかだと、あたかも一分の一のようにふるまってしまう。そういうことですね。
				  村上　そういうことです。だから僕がいつも思うのは、インターネットっていうのは本当に直接民主主義なんです。だからその分危険性もあるけれど、僕らにとってはものすごくありがたい。直接民主主義の中で作品を渡して、それが返ってくる。ものすごくうれしいです。だからインターネットっていうのは僕向けのものなんですね。（…）
				
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				<p>■<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4403210880/dotimpact-22/ref=nosim/">柴田元幸『翻訳教室』</a>が大変におもしろい。</p>
				
				<p>これ、日本語タイトルは『翻訳教室』といたってシンプルになっているけれど、表紙にある英文タイトルでは「Lectures on Literary Translation from English to Japanese」となっていて、内容は東大文学部での翻訳演習の講義内容を収録したもの。柴田元幸氏といえば東大教授にしてアメリカ現代文学の名翻訳家として絶大な影響力を持ち、またいっぽう弱腰な自身のパーソナリティを「弱腰だけには自信がある」とばかりに語る名エッセイでも知られる人物だけど、その柴田さん（あんまり「柴田先生」って感じじゃないのね）が学生といっしょに、現代作家の英語の文章を、その味わいをできるかぎり残しながらどんな日本語に訳したらいいかについて、ああでもないこうでもないと知恵を絞る模様をそのまま収録しているのがこの本だ。</p>
				
				<p>僕もまだ全部読み切ってはないんだけど、とにかく刺激的。<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4163402802/dotimpact-22/ref=nosim/">糸井重里『糸井重里の萬流コピー塾』</a>とか<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480814299/dotimpact-22/ref=nosim/">枡野浩一『かんたん短歌の作り方』</a>みたいな、お題に対する解答を達人が添削する、という本としても読めるし、すべてのレッスンについて原文と学生による試訳とその細部に関する議論、議論で添削された学生訳、さらに柴田さんの模範訳がそれぞれ載っていて、いろんな読みかたができたり勉強になったりして楽しいというのもある。でもそれよりやはりしびれるのは、柴田さんと学生の対話のなかで、作品としての英文に語られる「イメージ」というものが「きわめて厳密なもの」として扱われ、その厳密さを可能なかぎり同じ解像度の日本語に翻訳することに、どうにも不思議なほどの情熱が注がれている部分じゃないだろうか。僕なんかが読むとそれは、いわゆる文学への情熱というよりはもうちょっと自動的な、コードオプティマイズやスペックの大幅に違うハード間のプログラムコンバート（いわゆる「移植」！）へのハッカーやギークのむやみな情熱に、むしろ近しいように感じる。</p>
				
				<p>ちなみに、村上春樹氏をゲスト講師に招いた講義も収録されていて、そのなかで村上氏がなぜかいきなりウェブ進化論を語っていたのでせっかくだし引用。</p>
				
				<blockquote>
				  <p><em>柴田</em>　読者の声は聞かれますか？<br />
				  <em>村上</em>　インターネットでウェブサイトをやっていたときには全部読みました。僕がそのときに思ったのは、一つひとつの意見は、あるいはまちがっているのかもしれないし、偏見に満ちているのかもしれないけど、全部まとまると正しいんだなと。僕が批評家の批評を読まないのはそのせいだと思う。（…）<br />
				  <em>村上</em>　たとえばウェブサイトに批評家がメール送ってきたとしますよね。そうするとそこにメールが2000あったら2000分の1ですよね。よく書けている評論かもしれないけど2000分の1。僕がとらえるのもそういうことです。<br />
				  <em>柴田</em>　たとえばそれが、新聞の書評なんかだと、あたかも一分の一のようにふるまってしまう。そういうことですね。<br />
				  <em>村上</em>　そういうことです。だから僕がいつも思うのは、インターネットっていうのは本当に直接民主主義なんです。だからその分危険性もあるけれど、僕らにとってはものすごくありがたい。直接民主主義の中で作品を渡して、それが返ってくる。ものすごくうれしいです。だからインターネットっていうのは僕向けのものなんですね。（…）</p>
				</blockquote>
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		<title>Tropy(とろぴぃ）のことを考えている</title>
		<link>http://collisions.doppac.cc/archives/66</link>
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		<pubDate>Mon, 07 Nov 2005 15:00:18 +0000</pubDate>
		<dc:creator>dotimpact</dc:creator>
				<category><![CDATA[review]]></category>
		<category><![CDATA[text]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://collisions.doppac.cc/archives/66</guid>
		<description><![CDATA[				■ご多分にもれず、Tropy(とろぴぃ）のことを考えている。Tropyとは、結城浩さんがつくり、つい先日公開されていたソフトウェアだ。サーバ負荷の問題があり、いまは稼動していない。
				
				現在「お休み」しているTropyのことを記憶と想像だけで語るのはむずかしくあぶなっかしいのだが、それをしてみたい。たぶんおぼつかないので、間違いのないところは結城さん自身による解説を読んでもらったほうがいいだろう。
				
				Tropyには「どこにも中心はない」、と結城さんが解説しているとおり、http://www.hyuki.com/tropy/ を開いたとき表示されるページは、毎回ランダムに決定される。だから、Tropyを見た多くの人が、じっさいに最初にどんなページを見たかはわからない。にもかかわらずそれなりに確信があるのだけど、興味をもってTropyのページへ移動した人が、最初にTropyのページを見たとき、みんな「はっとした」んではないだろうか。Tropyのページは、いままで自分がみてきたいわゆるwebページの「なににも似ていない」、と感じただろうと想像する。それはおそらく結城さんが、「なににも似ていない」ようにTropyを設計していたからだ。
				
				しかし、その「なににも似ていない」Tropyが、初対面の仕事相手のように緊張を誘うものだったかというと、そうでもなかったはずだ。むしろ逆だろう。ここはやや大胆に言ってみようと思うけども、Tropyのページを見たとき、そのページに書かれたテキストを、「どこかのだれかが実際につぶやいているところ」をイメージしたんじゃなかっただろうか。Tropyのページには、どれにもちょうど「どこかのだれかの実際のつぶやき」分くらいの真実が含まれていたような気がする。その「つぶやき」を、ほかならぬ「どこかのだれかの実際のつぶやき」を聞くために、多くの人は「Random」のリンクを何度もクリックしてみたんだと僕は思う。そして、おそらくそれも、結城さんがTropyをそのように設計していたから、そうだったのだ。
				
				Tropyを見て、べつに最初からこういうことを考えていたわけではない。「Tropyが何をしていたのか」を考えるようになったのは、すでにたくさん開発されているTropyクローンをひととおり見てからだ。それらは、同機能を実現しているという意味では間違いなくTropyクローンだった。のだが、それらの多くは、Tropyよりも、「Tropy以外の別のもの」に似すぎているように感じられたのだった。どういうことだ？　と考えはじめたのは、それからだ。じっさいのところ、まだよくはわからない。
				
				結城浩さんご自身によるTropy設計判断というメモが公開されていて、Tropyのいろいろな要素を、なぜそうしたのかがわかるようになっている。僭越ながらコメントをつけさせてもらうと、これらの判断そのものは、プログラムやデザインをする人なら、特にwebアプリケーションの開発者やwebデザイナーなら、だれでもやっていることであり、驚くところではないと思う。驚くべきはそこではなくて、結城さん自身が語っているとおり、開発の時点ではTropy（開発されていた時点では、まだ名前のついていなかった「それ」）が、いったいどういうものなのか結城さん自身にもわかっていなかったにもかかわらず、そうした自覚的な判断をしていたというところではないかな。
				
				
				  Tropyでは、書かれたページの全貌や関係を、できるだけ&#8221;把握させない&#8221;ように工夫されています。できるだけランダムに、できるだけバラバラに。  
				  
				  このような、Webの慣習に逆行しているようなページに、いったいどんな意味があるのでしょうか。  
				  
				  結城自身にも、まだよくわかっていません。
				  
				  でも、あなたには、わかるかも。 
				
				
				たぶん結城さんは、そのページをみて、それがまだ「なににも似ていない」ことを目指して、それを見た人が「はっとする」ところを想像しながら、Tropyと名づけられるそれを作っていたのではないかと思うのだった。
				
				■私見ですが、現時点で本家にもっとも近いTropyクローン「Fropy」をどうぞ。
				
				
				http://tropy.aquahill.net/
				
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				<p>■ご多分にもれず、<a href="http://www.hyuki.com/d/200511.html#i20051103183338">Tropy(とろぴぃ）</a>のことを考えている。Tropyとは、<a href="http://www.hyuki.com/index.html">結城浩</a>さんがつくり、つい先日公開されていたソフトウェアだ。サーバ負荷の問題があり、いまは稼動していない。</p>
				
				<p>現在「お休み」しているTropyのことを記憶と想像だけで語るのはむずかしくあぶなっかしいのだが、それをしてみたい。たぶんおぼつかないので、間違いのないところは<a href="http://www.hyuki.com/d/200511.html#i20051103183338">結城さん自身による解説</a>を読んでもらったほうがいいだろう。</p>
				
				<p>Tropyには「どこにも中心はない」、と結城さんが解説しているとおり、http://www.hyuki.com/tropy/ を開いたとき表示されるページは、毎回ランダムに決定される。だから、Tropyを見た多くの人が、じっさいに最初にどんなページを見たかはわからない。にもかかわらずそれなりに確信があるのだけど、興味をもってTropyのページへ移動した人が、最初にTropyのページを見たとき、みんな「はっとした」んではないだろうか。Tropyのページは、いままで自分がみてきたいわゆるwebページの「なににも似ていない」、と感じただろうと想像する。それはおそらく結城さんが、「なににも似ていない」ようにTropyを設計していたからだ。</p>
				
				<p>しかし、その「なににも似ていない」Tropyが、初対面の仕事相手のように緊張を誘うものだったかというと、そうでもなかったはずだ。むしろ逆だろう。ここはやや大胆に言ってみようと思うけども、Tropyのページを見たとき、そのページに書かれたテキストを、「どこかのだれかが実際につぶやいているところ」をイメージしたんじゃなかっただろうか。Tropyのページには、どれにもちょうど「どこかのだれかの実際のつぶやき」分くらいの真実が含まれていたような気がする。その「つぶやき」を、ほかならぬ「どこかのだれかの実際のつぶやき」を聞くために、多くの人は「Random」のリンクを何度もクリックしてみたんだと僕は思う。そして、おそらくそれも、結城さんがTropyをそのように設計していたから、そうだったのだ。</p>
				
				<p>Tropyを見て、べつに最初からこういうことを考えていたわけではない。「Tropyが何をしていたのか」を考えるようになったのは、すでにたくさん開発されている<a href="http://www.hyuki.com/d/200511.html#i20051105203040">Tropyクローン</a>をひととおり見てからだ。それらは、同機能を実現しているという意味では間違いなくTropyクローンだった。のだが、それらの多くは、Tropyよりも、「Tropy以外の別のもの」に似すぎているように感じられたのだった。どういうことだ？　と考えはじめたのは、それからだ。じっさいのところ、まだよくはわからない。</p>
				
				<p>結城浩さんご自身による<a href="http://www.hyuki.com/d/200511.html#i20051107092750">Tropy設計判断</a>というメモが公開されていて、Tropyのいろいろな要素を、なぜそうしたのかがわかるようになっている。僭越ながらコメントをつけさせてもらうと、これらの判断そのものは、プログラムやデザインをする人なら、特にwebアプリケーションの開発者やwebデザイナーなら、だれでもやっていることであり、驚くところではないと思う。驚くべきはそこではなくて、結城さん自身が語っているとおり、開発の時点ではTropy（開発されていた時点では、まだ名前のついていなかった「それ」）が、いったいどういうものなのか結城さん自身にもわかっていなかったにもかかわらず、そうした自覚的な判断をしていたというところではないかな。</p>
				
				<blockquote>
				  <p>Tropyでは、書かれたページの全貌や関係を、できるだけ&#8221;把握させない&#8221;ように工夫されています。できるだけランダムに、できるだけバラバラに。  </p>
				  
				  <p>このような、Webの慣習に逆行しているようなページに、いったいどんな意味があるのでしょうか。  </p>
				  
				  <p>結城自身にも、まだよくわかっていません。</p>
				  
				  <p>でも、あなたには、わかるかも。 </p>
				</blockquote>
				
				<p>たぶん結城さんは、そのページをみて、それがまだ「なににも似ていない」ことを目指して、それを見た人が「はっとする」ところを想像しながら、Tropyと名づけられるそれを作っていたのではないかと思うのだった。</p>
				
				<p>■私見ですが、現時点で本家にもっとも近いTropyクローン「<a href="http://tropy.aquahill.net/sys?a">Fropy</a>」をどうぞ。</p>
				
				<ul>
				<li>http://tropy.aquahill.net/</li>
				</ul>
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		<title>胡口桂子「１円も儲からずにＴシャツを作る方法」</title>
		<link>http://collisions.doppac.cc/archives/64</link>
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		<pubDate>Sat, 05 Nov 2005 15:00:42 +0000</pubDate>
		<dc:creator>dotimpact</dc:creator>
				<category><![CDATA[review]]></category>
		<category><![CDATA[text]]></category>

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		<description><![CDATA[				
				１円も儲からずにＴシャツを作る方法—オンラインＴシャツショップGbMの伝説
				
				
				著作：胡口桂子／挿 T ：タナカカツキ／編集：伊藤ガビン／装丁：千原航
				価格：1500円（＋税）
				ラピュータ刊
				
				
				
				■言うまでもない、のかどうか。この本、つまり「１円も儲からずにＴシャツを作る方法—オンラインＴシャツショップGbMの伝説」について語る前に、やはりオンラインＴシャツショップGbMについて解説しなければならないのかもしれない。
				
				GbMとは、Ｔシャツ業界に別段縁があったわけでもない漫画家で映像作家のタナカカツキ氏と、編集者でライターでタナカカツキ氏の知人であったコグこと胡口桂子氏が、1999年に突如立ち上げたオンラインＴシャツショップであり、原則そのサイトでしか販売されていないオリジナルＴシャツのレーベルである。「GbM」とは「Gin bako Money（ギンバコマネー）」を意味し、そのロゴがＴシャツのボディにもタグにもでかでかと誇らしげにプリントされているが、その由来はここには書かない。くだらないので。GbMが本業でもないこの７年間の活動でラインナップしたＴシャツは実に74種類、そのすべてにタナカカツキの描き下ろしイラストをフィーチャーし、そのすべてに通常では考えられない特殊な加工や多版プリントや刺繍をほどこし、そのすべてに高価な特色後染を含む節操のないほど多彩なボディカラーを配し、そのすべてにわざわざ毎シーズン違うオリジナルタグをぬい込み、そのすべてにいわゆる「こだわりのアーティストＴシャツ」と呼ぶにはあまりにも控えめな価格を設定し、さして宣伝も営業もせず、自宅の部屋に在庫のダンボールを積み上げ、オーダーに合わせてＴシャツをたたみ、フルカラーのカタログをバレンで折り込み、頼まれてもいないのにノベルティのステッカーを封入し、年が変われば年賀ダイレクトメールを郵送し、なおかつ１円も儲からなかった。それがオンラインＴシャツショップGbMだ。そしてこの本、つまり「１円も儲からずにＴシャツを作る方法—オンラインＴシャツショップGbMの伝説」は、そんなGbMの７年間の活動を追ったネットビジネス書…、ではない。そうではない。ここからはその話だ。
				
				僕の記憶が確かならば、初期のころGbMは「攻め型」のオンラインＴシャツショップを自称していたはずだ。GbMは「攻め」なのだと彼らは言っていた。実際のところ僕はGbMの活動をそれほど知っているわけではないんだけども（Ｔシャツもあんま買ってないし）、この本を読んでGbMはいったい何をどう「攻め」ていたのかが、なんとなくわかってきた。こういうことだ。GbMはオンラインＴシャツショップを自称し、事実そうであったにもかかわらず、「まるでＴシャツショップではないのかのように」活動してきたのであった。それが彼らの言う「攻め」なわけだ。「１円も儲からない」とは、ＴシャツショップであるGbMが「まるでＴシャツショップではないかのように」活動するための方法のひとつだ。
				
				さて。この本でコレクションを一覧すればわかるとおり、GbMのつくろうとしているＴシャツとは、ひとことで言えば「素の」Ｔシャツ、のようなものだ。なにかばっちりデザインされたカッコイイものとか、見る前からかわいいようなものは目指されていない。むしろ、古着屋のワゴンの底のほうに１枚だけあるような、どこのだれが作ったんだかわからないような、デザインの意図が読めない、でもどこか憎めない、自分がはじめて見つけた感じのするおもしろさを持った、そういったＴシャツが目指されている。おそらくそんなオリジナルＴシャツをつくろうとしているメーカーは世界で探してもGbMしかいないだろう。だって本来それは、オリジナルＴシャツのデザインによって目指せるものではないからだ。GbMが「まるでＴシャツショップではないかのように」活動する姿勢は、ここにもあらわれている。
				
				そしてGbMがさらに変わっていることには、Ｔシャツを「デザイン」しないかわりに、そのＴシャツの「ストーリー」を用意するのである。もちろんＴシャツに印刷されたキャラクターに設定があるとか、そういうことではない。言ってみればGbMは、自分たちが作ったオリジナルＴシャツを古着屋のワゴンに放り込んで、それを底から引っ張り出すわけだ。デザインの意図が読めない、でもどこか憎めない、自分がはじめて見つけた感じのするおもしろさを持った、そういったＴシャツを発見したときについぼんやり思い巡らすようなエピソードやストーリーを、GbMはＴシャツの「解説」として用意する。この本、つまり「１円も儲からずにＴシャツを作る方法—オンラインＴシャツショップGbMの伝説」にコグ氏は、74種類すべてのＴシャツについてそれを書き下ろしている。この本の内容の大部分をしめる膨大な文章は、GbMのＴシャツそのものとは特に関係のない、こういってよければとりとめのない、しかし驚きに満ちわけもなく輝く、自分がはじめて見つけた感じのするおもしろさを持った、夢物語のようなものだ。Ｔシャツショップの本なのに！　変わっている！　と言わざるをえないが、GbMとは、そしてGbMの考えるＴシャツとは、つまりそういうものなのだということだろう。
				
				したがって、お分かりと思うが、つまりこの本「１円も儲からずにＴシャツを作る方法—オンラインＴシャツショップGbMの伝説」は、GbMの７年間の活動を追ったネットビジネス書…、ではなく、「まるでＴシャツショップではないかのように」活動を続けてきたオンラインＴシャツショップGbMの、最新の活動である。GbMは、だれも目指してないような「素の」Ｔシャツを、ふつうよりずっと丹念な手間をかけながら、７年間も作り続け、さらにはそれを誰かが見つけたときの74通りの気持ちまでも文章に綴り、いぜん１円も儲からないまま、なぜかそれを本にした。それがGbMというＴシャツショップの「攻め」なのだと、彼らは言っている。
				
				GbMの伝説は、おそらくまだ続くのだろう。
				
				
				黒松ブックスVol.001　 『１円も儲からずにTシャツを作る方法〜オンラインTシャツショップGbMの伝説』
				
				
				立ち読みPDFあり
				
				
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				<ul>
				<li><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4947752564/dotimpact-22/ref=nosim/">１円も儲からずにＴシャツを作る方法—オンラインＴシャツショップGbMの伝説</a>
				
				<ul>
				<li>著作：胡口桂子／挿 T ：タナカカツキ／編集：伊藤ガビン／装丁：千原航</li>
				<li>価格：1500円（＋税）</li>
				<li>ラピュータ刊</li>
				</ul></li>
				</ul>
				
				<p>■言うまでもない、のかどうか。この本、つまり「<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4947752564/dotimpact-22/ref=nosim/">１円も儲からずにＴシャツを作る方法—オンラインＴシャツショップGbMの伝説</a>」について語る前に、やはり<a href="http://kuromatsu.jp/gbm/">オンラインＴシャツショップGbM</a>について解説しなければならないのかもしれない。</p>
				
				<p>GbMとは、Ｔシャツ業界に別段縁があったわけでもない漫画家で映像作家の<a href="http://www.kaerucafe.com/ka2ki/">タナカカツキ</a>氏と、編集者でライターでタナカカツキ氏の知人であったコグこと<a href="http://www.kogu.org/">胡口桂子</a>氏が、1999年に突如立ち上げたオンラインＴシャツショップであり、原則そのサイトでしか販売されていないオリジナルＴシャツのレーベルである。「GbM」とは「Gin bako Money（ギンバコマネー）」を意味し、そのロゴがＴシャツのボディにもタグにもでかでかと誇らしげにプリントされているが、その由来はここには書かない。くだらないので。GbMが本業でもないこの７年間の活動でラインナップしたＴシャツは実に74種類、そのすべてにタナカカツキの描き下ろしイラストをフィーチャーし、そのすべてに通常では考えられない特殊な加工や多版プリントや刺繍をほどこし、そのすべてに高価な特色後染を含む節操のないほど多彩なボディカラーを配し、そのすべてにわざわざ毎シーズン違うオリジナルタグをぬい込み、そのすべてにいわゆる「こだわりのアーティストＴシャツ」と呼ぶにはあまりにも控えめな価格を設定し、さして宣伝も営業もせず、自宅の部屋に在庫のダンボールを積み上げ、オーダーに合わせてＴシャツをたたみ、フルカラーのカタログをバレンで折り込み、頼まれてもいないのにノベルティのステッカーを封入し、年が変われば年賀ダイレクトメールを郵送し、なおかつ１円も儲からなかった。それがオンラインＴシャツショップGbMだ。そしてこの本、つまり「<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4947752564/dotimpact-22/ref=nosim/">１円も儲からずにＴシャツを作る方法—オンラインＴシャツショップGbMの伝説</a>」は、そんなGbMの７年間の活動を追ったネットビジネス書…、ではない。そうではない。ここからはその話だ。</p>
				
				<p>僕の記憶が確かならば、初期のころGbMは「攻め型」のオンラインＴシャツショップを自称していたはずだ。GbMは「攻め」なのだと彼らは言っていた。実際のところ僕はGbMの活動をそれほど知っているわけではないんだけども（Ｔシャツもあんま買ってないし）、この本を読んでGbMはいったい何をどう「攻め」ていたのかが、なんとなくわかってきた。こういうことだ。GbMはオンラインＴシャツショップを自称し、事実そうであったにもかかわらず、「まるでＴシャツショップではないのかのように」活動してきたのであった。それが彼らの言う「攻め」なわけだ。「１円も儲からない」とは、ＴシャツショップであるGbMが「まるでＴシャツショップではないかのように」活動するための方法のひとつだ。</p>
				
				<p>さて。この本でコレクションを一覧すればわかるとおり、GbMのつくろうとしているＴシャツとは、ひとことで言えば「素の」Ｔシャツ、のようなものだ。なにかばっちりデザインされたカッコイイものとか、見る前からかわいいようなものは目指されていない。むしろ、古着屋のワゴンの底のほうに１枚だけあるような、どこのだれが作ったんだかわからないような、デザインの意図が読めない、でもどこか憎めない、自分がはじめて見つけた感じのするおもしろさを持った、そういったＴシャツが目指されている。おそらくそんなオリジナルＴシャツをつくろうとしているメーカーは世界で探してもGbMしかいないだろう。だって本来それは、オリジナルＴシャツのデザインによって目指せるものではないからだ。GbMが「まるでＴシャツショップではないかのように」活動する姿勢は、ここにもあらわれている。</p>
				
				<p>そしてGbMがさらに変わっていることには、Ｔシャツを「デザイン」しないかわりに、そのＴシャツの「ストーリー」を用意するのである。もちろんＴシャツに印刷されたキャラクターに設定があるとか、そういうことではない。言ってみればGbMは、自分たちが作ったオリジナルＴシャツを古着屋のワゴンに放り込んで、それを底から引っ張り出すわけだ。デザインの意図が読めない、でもどこか憎めない、自分がはじめて見つけた感じのするおもしろさを持った、そういったＴシャツを発見したときについぼんやり思い巡らすようなエピソードやストーリーを、GbMはＴシャツの「解説」として用意する。この本、つまり「<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4947752564/dotimpact-22/ref=nosim/">１円も儲からずにＴシャツを作る方法—オンラインＴシャツショップGbMの伝説</a>」にコグ氏は、74種類すべてのＴシャツについてそれを書き下ろしている。この本の内容の大部分をしめる膨大な文章は、GbMのＴシャツそのものとは特に関係のない、こういってよければとりとめのない、しかし驚きに満ちわけもなく輝く、自分がはじめて見つけた感じのするおもしろさを持った、夢物語のようなものだ。Ｔシャツショップの本なのに！　変わっている！　と言わざるをえないが、GbMとは、そしてGbMの考えるＴシャツとは、つまりそういうものなのだということだろう。</p>
				
				<p>したがって、お分かりと思うが、つまりこの本「<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4947752564/dotimpact-22/ref=nosim/">１円も儲からずにＴシャツを作る方法—オンラインＴシャツショップGbMの伝説</a>」は、GbMの７年間の活動を追ったネットビジネス書…、ではなく、「まるでＴシャツショップではないかのように」活動を続けてきたオンラインＴシャツショップGbMの、最新の活動である。GbMは、だれも目指してないような「素の」Ｔシャツを、ふつうよりずっと丹念な手間をかけながら、７年間も作り続け、さらにはそれを誰かが見つけたときの74通りの気持ちまでも文章に綴り、いぜん１円も儲からないまま、なぜかそれを本にした。それがGbMというＴシャツショップの「攻め」なのだと、彼らは言っている。</p>
				
				<p>GbMの伝説は、おそらくまだ続くのだろう。</p>
				
				<ul>
				<li><a href="http://kuromatsu.jp/books/001/index.html">黒松ブックスVol.001　 『１円も儲からずにTシャツを作る方法〜オンラインTシャツショップGbMの伝説』</a>
				
				<ul>
				<li>立ち読みPDFあり</li>
				</ul></li>
				</ul>
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		<item>
		<title>ギム・ドワイヤー＆ケヴィン・フリン「9.11　生死を分けた102分」</title>
		<link>http://collisions.doppac.cc/archives/62</link>
		<comments>http://collisions.doppac.cc/archives/62#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 04 Nov 2005 15:00:49 +0000</pubDate>
		<dc:creator>dotimpact</dc:creator>
				<category><![CDATA[review]]></category>
		<category><![CDATA[text]]></category>

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		<description><![CDATA[				
				9･11生死を分けた102分 崩壊する超高層ビル内部からの驚くべき証言
				
				
				ジム・ドワイヤー　ケヴィン・フリン 著
				三川 基好 　訳
				価格：￥1,890 （税込）
				文藝春秋　刊
				
				
				
				■ギム・ドワイヤー＆ケヴィン・フリン「9.11　生死を分けた102分」を読んだ。ほんとうにすごい本だった。
				
				■言うまでもないが、この本の言う「102分」というのは、2001年9月11日のワールドトレードセンター北タワーに、ハイジャックされたアメリカン航空11便が激突した瞬間から、２棟あったタワーが両方とも完全に倒壊するまでの時間を意味する。この本は、352名を数えるという生存者、犠牲者の家族や知人、および救助隊員らへのインタビューと交信記録をもとに、ワールドトレードセンターのその「102分」すべての瞬間において、何が起き、人々は何を判断し、どう行動したかを克明に報告しようとするものだ。２機の航空機がビルに突入し、爆発し、ビルに火災が起き、やがて倒壊した。死傷者や被害者の脱出のために現場は混乱し、救助隊がそれを助けた。そこまではすでに誰でも知っている。そうではなく、ビルの内部にいたある人物が、建物を襲った衝撃が93年のテロのような地下の爆弾ではなく、航空機の突入によるものだと知ったのはその瞬間から何分後だったのか。南タワーが倒壊している瞬間、北タワーで避難や救助にあたる人々のうちそれに気付いていたのは何人いたのか。誰が誰とともに行動し、誰が誰を助け、励ましたのか。何人がどうやって倒壊寸前のビルから脱出し、何人の救助隊員が誰と誰を救助したのか。そしてどれだけの被害者と救助隊員が、どういう状況で、倒壊に巻き込まれたのか。そういうことをこの本は明らかにしようとしている（もちろん、本に登場するのは被害者のごくごく一部でしかないのだが）。その作業のためにこの本の執筆には３年間が必要だったとされている。
				
				■世界一のフロア数を持っていた２棟のビルのほとんどの階での出来事と、そこにいた被害者と救助隊員の状況と判断と明らかな限りの交信記録とを、 102分の時間に沿って並列させるという、とてつもない構成をこの本はとっている。事故調査委員会の報告書であれば、こんな複雑な構成は不必要だっただろう。けどおそらく著者らは、この把握が困難なほどの同時性こそが、当時のワールドトレードセンターで進行していた事態なのだと確信しているはずだ。混乱と絶望と恐怖、すれ違う報告と伝わらない重大なメッセージ、統率を失った組織の無力と個人の判断の力。こうしたすべてが9.11のワールドトレードセンターに交錯し、人々はそのすべてを経験した。その状況は救助に向かっていた警察官や消防隊員についても同様であり、彼らもある種の被害者であったというのがこの本の基調だ。倒壊寸前のビルの上層部へと、鎮火が不可能なことを知りつつ消火用の重装備をかついだまま、非常階段を使って一段づつ上っていかざるを得なかった消防隊員たちは、その時点で報告や指令を受ける本部とのチャンネルをほぼ完全に失っていたのだと著者らは指摘する。そのために比較的低層にいた隊員たちが、倒壊するビルから脱出できず犠牲になったのだと。9.11の悲劇は「911（アメリカのエマージェンシーコールナンバーだ）」の悲劇でもあった、というのがこの本の最終的な結論のひとつだろう。
				
				■そしてまた、この本はワールドトレードセンターの物語でもある。テロリストに「資本主義の象徴」と呼ばれたこのビルは事実、経済効率のために避難路の確保や耐火構造の検証を極限まで、致命的なまでに軽視していた。40年前に建築法を改正してまで推進されたこのビルの建設は、そこに働く人々の生活を変え栄光のランドマークとしてマンハッタンの風景になっていた一方で、ビル中央に集中したたった３つの非常階段が同時に寸断された場合、上層居住者はどのように脱出したらいいか、といった想定をまったく考慮しないまま、「ボーイング707が激突しても倒れない」と謳っていたという。航空機が突入した階層の上にいた1500名を越す被害者は逃げ場を失い、地獄のような煙と熱に苛まれながら、崩れる床や天井に沈んだ。彼ら彼女らはその直前まで電話やメールで家族や同僚と連絡を取りあっており、その悲痛な声が記録に残されている。この本では、倒れるはずがなかったワールドトレードセンターの２つのタワーがなす術もなく倒壊する姿を何度も、タイタニック号の沈没に例える。二十世紀最大の悲劇は、二十一世紀最初の悲劇の教訓になり得なかったのかと。そしてこの悲劇の教訓こそは、後世に伝えるべきであると。
				
				
				
				■ちなみにamazonのレビューに「訳が直訳に過ぎる」という評があるけど、僕はそうは思わなかった。入り組んだ構成を日本語の呼吸に組みなおした良質な訳だと思う。執拗なほどの描写の連続を直訳的だと判断したのかもしれないけど、これは原文もこうだったろうと思える。著者たちはすでに存在しないワールドトレードセンターとそこにいた犠牲者たちの102分を、１センテンスでも多く書き尽くそうとしているのだ。そうなるに決まっているではないか。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				<ul>
				<li><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4163674306/dotimpact-22/ref=nosim/">9･11生死を分けた102分 崩壊する超高層ビル内部からの驚くべき証言</a>
				
				<ul>
				<li>ジム・ドワイヤー　ケヴィン・フリン 著</li>
				<li>三川 基好 　訳</li>
				<li>価格：￥1,890 （税込）</li>
				<li>文藝春秋　刊</li>
				</ul></li>
				</ul>
				
				<p>■<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4163674306/dotimpact-22/ref=nosim/">ギム・ドワイヤー＆ケヴィン・フリン「9.11　生死を分けた102分」</a>を読んだ。ほんとうにすごい本だった。</p>
				
				<p>■言うまでもないが、この本の言う「102分」というのは、2001年9月11日のワールドトレードセンター北タワーに、ハイジャックされたアメリカン航空11便が激突した瞬間から、２棟あったタワーが両方とも完全に倒壊するまでの時間を意味する。この本は、352名を数えるという生存者、犠牲者の家族や知人、および救助隊員らへのインタビューと交信記録をもとに、ワールドトレードセンターのその「102分」すべての瞬間において、何が起き、人々は何を判断し、どう行動したかを克明に報告しようとするものだ。２機の航空機がビルに突入し、爆発し、ビルに火災が起き、やがて倒壊した。死傷者や被害者の脱出のために現場は混乱し、救助隊がそれを助けた。そこまではすでに誰でも知っている。そうではなく、ビルの内部にいたある人物が、建物を襲った衝撃が93年のテロのような地下の爆弾ではなく、航空機の突入によるものだと知ったのはその瞬間から何分後だったのか。南タワーが倒壊している瞬間、北タワーで避難や救助にあたる人々のうちそれに気付いていたのは何人いたのか。誰が誰とともに行動し、誰が誰を助け、励ましたのか。何人がどうやって倒壊寸前のビルから脱出し、何人の救助隊員が誰と誰を救助したのか。そしてどれだけの被害者と救助隊員が、どういう状況で、倒壊に巻き込まれたのか。そういうことをこの本は明らかにしようとしている（もちろん、本に登場するのは被害者のごくごく一部でしかないのだが）。その作業のためにこの本の執筆には３年間が必要だったとされている。</p>
				
				<p>■世界一のフロア数を持っていた２棟のビルのほとんどの階での出来事と、そこにいた被害者と救助隊員の状況と判断と明らかな限りの交信記録とを、 102分の時間に沿って並列させるという、とてつもない構成をこの本はとっている。事故調査委員会の報告書であれば、こんな複雑な構成は不必要だっただろう。けどおそらく著者らは、この把握が困難なほどの同時性こそが、当時のワールドトレードセンターで進行していた事態なのだと確信しているはずだ。混乱と絶望と恐怖、すれ違う報告と伝わらない重大なメッセージ、統率を失った組織の無力と個人の判断の力。こうしたすべてが9.11のワールドトレードセンターに交錯し、人々はそのすべてを経験した。その状況は救助に向かっていた警察官や消防隊員についても同様であり、彼らもある種の被害者であったというのがこの本の基調だ。倒壊寸前のビルの上層部へと、鎮火が不可能なことを知りつつ消火用の重装備をかついだまま、非常階段を使って一段づつ上っていかざるを得なかった消防隊員たちは、その時点で報告や指令を受ける本部とのチャンネルをほぼ完全に失っていたのだと著者らは指摘する。そのために比較的低層にいた隊員たちが、倒壊するビルから脱出できず犠牲になったのだと。9.11の悲劇は「911（アメリカのエマージェンシーコールナンバーだ）」の悲劇でもあった、というのがこの本の最終的な結論のひとつだろう。</p>
				
				<p>■そしてまた、この本はワールドトレードセンターの物語でもある。テロリストに「資本主義の象徴」と呼ばれたこのビルは事実、経済効率のために避難路の確保や耐火構造の検証を極限まで、致命的なまでに軽視していた。40年前に建築法を改正してまで推進されたこのビルの建設は、そこに働く人々の生活を変え栄光のランドマークとしてマンハッタンの風景になっていた一方で、ビル中央に集中したたった３つの非常階段が同時に寸断された場合、上層居住者はどのように脱出したらいいか、といった想定をまったく考慮しないまま、「ボーイング707が激突しても倒れない」と謳っていたという。航空機が突入した階層の上にいた1500名を越す被害者は逃げ場を失い、地獄のような煙と熱に苛まれながら、崩れる床や天井に沈んだ。彼ら彼女らはその直前まで電話やメールで家族や同僚と連絡を取りあっており、その悲痛な声が記録に残されている。この本では、倒れるはずがなかったワールドトレードセンターの２つのタワーがなす術もなく倒壊する姿を何度も、タイタニック号の沈没に例える。二十世紀最大の悲劇は、二十一世紀最初の悲劇の教訓になり得なかったのかと。そしてこの悲劇の教訓こそは、後世に伝えるべきであると。</p>
				
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				<p>■ちなみにamazonのレビューに「訳が直訳に過ぎる」という評があるけど、僕はそうは思わなかった。入り組んだ構成を日本語の呼吸に組みなおした良質な訳だと思う。執拗なほどの描写の連続を直訳的だと判断したのかもしれないけど、これは原文もこうだったろうと思える。著者たちはすでに存在しないワールドトレードセンターとそこにいた犠牲者たちの102分を、１センテンスでも多く書き尽くそうとしているのだ。そうなるに決まっているではないか。</p>
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